当時、十八歳。長崎市中川町の洋裁学校の生徒で、学校では国のために作業着などを縫う一方、尾上町の長崎駅にも動員され、改札や案内放送を担当した。
両親は昭和十八年ごろまで、新地中華街で自転車店を営んでいたが、戦局が厳しくなり物品が統制されるようになると、店をたたんで兄弟と満州へ。駅の上司から辞職を許されなかった私だけが、大浦町のおじ夫婦の家に残った。
昭和二十年八月九日は、朝から長崎駅に出勤。当日の改札は、私を含め女性が四人。午前中、空襲警報が鳴ったが、しばらくして解除になったので、午前十一時二分発の佐世保行き列車を、十五分ほど早めに改札して送り出した。
ホームわきの八畳ほどの改札室に戻ってしばらくすると、何の前触れもなく青い光が差した。私たちは瞬時に机の下へ。みんなは爆発音がしたというが、私に音の記憶はない。衝撃の後、顔を上げると、柱に突き刺さった無数のガラス片が目に止まった。もし体に刺さっていたら―そう考えた途端、激しい恐怖に襲われ、無傷でいられたのは両親の加護のおかげと感謝した。
奇跡的に改札室の女性たちは無傷で、駅前の防空壕(ごう)へ避難した。中は負傷者で埋まり、駅構内で上半身裸で石炭をくべる練習をしていた動員学徒は、全身に大やけどを負っていた。かすかな声で助けを求める姿に、持っていた薬を全部塗り、傷をあおいであげるのが精いっぱいだった。やがて火災の煙が壕内に入りはじめ、全員外へ出た。
仲間と別れ、おじの家へ向かったが、大黒町では道の両側から迫る炎の中を横切り、桜町では、頭上スレスレを飛ぶ敵機に思わず川へ飛び込んだ。民家の壕には入れてもらえず、少しでも大きな建物に入ろうと新興善小学校へ。医療設備があった同校には、長崎港の船員の負傷者がおり、見過ごせず治療を手伝った。家に着いたのは夕方遅かった。
おじの言い付けで、終戦まで南山手の防空壕で生活。浦上方面の空は数日間、炎で赤く照らされていた。十九日、友人に頼まれ黒焦げの遺体が残る浦上へ。城山一丁目の防空壕から友人の荷物を運び出した。八月末、駅の仕事に戻ったが、駅前は連日、戸板を持って遺体捜しに向かう人たちが後を絶たなかった。
戦後は重い貧血に悩まされ、一歩進んでは一息つくの繰り返し。同様の症状だった改札室の女性一人は、被爆から数年後、他界した。(大村)
<私の願い>
人類が、すべての核兵器を廃絶することが、被爆者としての私の悲願。通常兵器とは比較にならない破壊力と、後遺症を生む核の惨状を体験して、二度と惨禍を繰り返してはならないと考える。