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私の被爆ノート

ぼろぼろの負傷者次々に

2000年3月9日 掲載
森 リヨ(69) 爆心地から3.2キロの桜馬場町の市立高等女学校で被爆 =長崎市花園町=

当時十四歳で、長崎市桜馬場町の市立高等女学校の三年生だった。実家が西彼野母崎町だったので、学校から数分の親せきの知人宅に下宿。下宿先は三人姉妹がいる家庭だった。

学校の体育館は工場として使用され、ほとんどの生徒たちが三菱長崎造船所幸町工場に動員された。校内の工場の作業は三、四年の各四クラスのうち、一クラスずつが割り当てられ、私は校内の工場の担当だった。原爆投下後の幸町工場の惨状を聞くたびに「幸町工場で作業をしていたら」と思うとぞっとする。

あの日は朝から警戒警報が鳴る中、学校の資料を校内の防空ごうに運び出し避難していた。防空ごうの奥には大きな水たまりがあり、長い時間、友達と水を掛け合って遊んだ。警報が解除され、ずぶぬれになって防空ごうから出ると、先生が「暑かったからねえ」と笑いながら声を掛けた。空襲という状況ではあったが、全体に緊張感はなかった。

その後、体育館の工場で作業していると、突然ピカッと光った。電気がショートしたのかなと思った瞬間、「ガラガラ、ドッシン」というすごい物音が響き、「伏せろ」という叫び声があちこちで響いた。

しばらくたってから外に出てみると、浦上方面では大きな黒い煙が上がっていた。

すぐに校内の防空ごうに逃げ込んだ生徒もいたが、近くの下宿先に急いで戻った。町の様子はいつもと変わらず、何が起きたのか、分からなかった。

その夜、下宿先の家族とともに本河内町内の防空ごうに避難。防空ごうには衣服はぼろぼろで、全身にやけどを負った人たちが次々と逃げ込んできた。初めて見る負傷者の姿に、不安と恐怖でいっぱいだった。「早く家族に会いたい」という気持ちが募った。

翌朝、家族に会いたい一心で周りの反対を押し切り、リュックサックを一つ背負って一人で実家に向かった。週末には実家に帰っていたので、戸町まで行けば、バスが出ているはずとひたすら歩き続けた。

しかし、その日はバスは運行していなかった。道中知り合った数人の女性とともに歩く山道は心細かった。家に着いたときは既に日が暮れていた。

安否を気遣っていた家族は私を見て驚きを隠せない様子だったが、無事を喜んでいた。
<私の願い>
だれもが願っていることだが、平和な世の中が一番。原爆もだが、戦争中の空襲で機銃掃射があったときの恐怖はもう二度と体験したくない。毎日おびえきった生活を送るのは嫌だ。戦争の悲劇を繰り返してはならない。

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