当時、私は十九歳。長崎市飽の浦の三菱長崎造船所で、艤装(ぎそう)工として軍艦の配管などに携わっていた。
昼前、仕事を早く切り上げて、クレーン台の陰で休憩しながら仲間が来るのを待っていたところ、いきなり「ドカーン」という大きな音が響いた。顔を上げてみると、市内中心部は山の上の方しか見えなくなっていた。下の方は砂煙などで全く見えなかった。
そのまま、近くの防空ごうに駆け込んだが、混乱してだれがどこに入ったかまでは分からなかった。ただ、居合わせた人たちが「広島に落ちた新型爆弾と同じらしかぞ」と話していたのを覚えている。
翌朝、死体搬出作業を割り当てられ、城山町の小学校へ歩いて向かったが、途中で見た光景は地獄絵図だった。車も建物もめちゃくちゃ。足がちぎれた馬や、ボロをまとった人、血みどろになったり、黒焦げになった人たちが泣きながら歩いていた。浦上川のほとりには「水ばくれ、水ばくれ」という人たちでごった返し、次々に川に頭を突っ込んで死んでいった。
小学校では、山積みされた死体を焼く作業をさせられた。何本も敷いた角材の上に死体を並べ、角材の下に油を入れて一度に何十人も焼いた。途中、自分の子供を捜しにきた親が、死体の山を掘り起こしている場面を何度も見た。言葉にならなかった。
九日後、班長の許可が出て、古里の西彼大瀬戸町に戻ることにした。大波止で運よく、外海町神浦に向かう漁船を見つけ乗せてもらうことができた。神浦から約一時間歩き、午後八時ごろ自宅にたどり着いた。
着いた時は、漁師をしていた父親や親類ら約十人が長崎市まで私を捜しに行こうとして港から船を出す準備をしていた。あと十分ぐらい帰りが遅かったら、入れ違いになるところだった。みんな「どうせ死んどるやろう」と思っていたらしく、私が帰ってきたことに驚き、喜んでくれた。
あれから五十数年。内臓疾患など数々の後遺症に悩まされ、今ではほとんど目も見えなくなったが、現在まで生きてこられたのは幸運だったと思っている。死体を焼く作業をしていた時は感覚がまひしていたのだろう。淡々と作業をこなしていたが、振り返って考えれば恐ろしくて言葉にならない。もう二度とあんなことはしたくないし、子供たちにあんな思いはさせたくない。(大瀬戸)
<私の願い>
戦争、核兵器がない世界が一番。人間を殺す兵器、核兵器を造っていること自体に問題がある。戦争はわれわれの世代で終わった。子供たちを戦場にやらなくていい平和な世の中が、いつまでも続くことを願っている。