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私の被爆ノート

何百人も並んだけが人

2000年2月10日 掲載
与之村芳子(79) 8月16日から約1週間、医療支援のため入市 =平戸市宮の町=

学校を出てから、郵政省管轄の福岡簡易保険局に勤めていたが、故郷の平戸にその支所ができると聞いて、一九四三年ごろ帰郷した。現在の新町にあった今でいう保健所で、事務職員として働いていた。当時は平戸も空襲警報が頻繁に鳴り、みんなで防空壕(ごう)へ避難していたのを覚えている。

長崎に大きな爆弾が落ちた、ということは伝わってきたが、詳しいことは何も知らなかった。平戸の保健所にも、長崎市へ支援に行くよう命令がきて、終戦後の十六日、医師や看護婦ら五―六人と一緒に列車で長崎へ向かった。

浦上駅に到着する少し前から、窓の外を見てびっくりした。あれは浦上川だったのだろうか、川の中に牛や馬が横たわって死んでいる。近くの民家は倒れたり、屋根がわらが魚のウロコをそいだように起き上がっていた。

駅に降り立つと、むしろがあちこちに、山をなしている。「あれは何」と聞くと「死体だ。今から焼くんだ」とだれかが教えてくれた。暑い盛りでにおいもひどかった。

長崎市は、子どものころ修学旅行で訪れただけで土地勘がなかった。駅からどこへ連れて行かれたのか、今でもよく分からない。広い学校の中の体育館だった。確か「勝山」という所だったと思う。

五十年以上も昔のことで、細かい記憶は薄れてきている。でも、あの体育館の中の光景だけは頭から離れない。白いガーゼから目と口だけを出したけが人がずらーっと、何百人も並んでいた。髪の毛はチリチリに焼け、男か女かも分からない。「痛か」と叫ぶ声。「この人たちは生きられるのだろうか」という考えが浮かんだ。

私は医療はできないので傷の消毒だけを受け持った。オキシドールを傷口に注ぐと、うじが出てくる。せっけんの泡が立ってくるように、大きなやつがどんどん出てきた。「この人はもう、痛みも何も感じていないのだろう」と思った。あれは生き地獄だった。

近くで寝泊まりし、約一週間も体育館で作業を続けたろうか。寝ていたけが人が、明くる日にはいなくなっていることも多かった。夜のうちに死んだのだ。とにかくあの惨状は、見た人でないと分からない。

平戸に帰ってしばらくすると「長崎に行った人は病気になる」という話が出始めた。長崎は最近になって観光で訪れたが「まったく変わったなあ」と感慨深かった。しかし、今でも長崎というと、あの日の光景を思い出す。(平戸)
<私の願い>
たった一人の兄も戦争で失った。戦争を知らない若い世代にも、戦争の恐ろしさを少しでも知ってほしい。今の長崎を見て、あの惨状を想像することは難しいと思うが、原爆資料館などを訪れてもらいたい。

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