深堀 陽子
深堀 陽子(74)
爆心地から1.8キロの現・昭和町の三菱兵器工場で被爆 =西彼伊王島町沖之島=

私の被爆ノート

肩のガラスにも気付かず

2000年2月4日 掲載
深堀 陽子
深堀 陽子(74) 爆心地から1.8キロの現・昭和町の三菱兵器工場で被爆 =西彼伊王島町沖之島=

当時十九歳の私は、現在の長崎市昭和町の三菱兵器の工場で働いていた。その工場は、三菱兵器大橋工場から一キロ離れた場所にあり、当時はあまり知られていなかった。八月九日も、いつも通り工場の事務所で、朝から書類の整理などの仕事に追われていた。

午前十一時すぎ、「ドーン」と建物に衝撃が走った。私はとっさにいすから飛びのき、床に伏せていた。するとガラガラと音をたてて材木がたくさん落ちてきた。私は、周りをすっかり材木の山に囲まれてしまった。

脱出できずに困っていたら、しばらくして同僚たちが助け出してくれた。右の足首からすねのあたりまでけがをしていた。いったい何が起こったのか。傷も痛んできたが、先輩や同僚たちに支えられながら、私たちは三菱兵器大橋工場近くの線路を目指した。先輩たちには救援列車が近づく音が聞こえていたのだろう。

線路のそばまで行くと、遠くで「乗れ」という声が聞こえた。目の前に止まっていた最初の救援列車に押し込められるように乗り込んだ。訳が分からないまま、言われるままに行動した。恐ろしくて周りを見る余裕はなく、外の景色も覚えていない。ただ黙って列車が揺られる音を聞いていた。

諫早で同僚たちと列車を降りた。避難した場所には屋根があって、ほっとした。数十人がその場所で寝泊まりしており、私も約一週間過ごした。一緒に逃げてきていた自分と同じ工場の女子挺身(ていしん)隊員の親類の家が諫早にあったため、その後三日間ほどお世話になった。

諫早へ逃げてきてから二週間が過ぎたころ、私が自宅に連絡できていないことを知った同隊員の親類が、馬町の実家に連絡して無事を伝えてくれた。実家では、弟が私の行方を毎日捜し続けていたが見つからず、もう死んだものと思っていたらしい。家に戻ると「よかった」と涙を流して喜んでくれて、私も生きていることを実感した。

実家に帰って間もなく、けがの治療のため知人に連れられ、片淵にあった救護所へ行った。私の右足の傷を見た知人が貧血を起こして倒れてしまった。傷口はえぐれるように開き、ひどい状態だったらしい。

治療の途中、何か右肩あたりに違和感を感じ先生に見てもらった。その時初めて、表面から見えないくらい深く、無数のガラスが刺さっていたのが分かった。薬を塗り、ガーゼを替えてもらいに通うとき、少しずつガラスを取り除いてもらった。思えば、肩のガラスに気付かないほど必死で逃げていたのだ。
<私の願い>
原爆の悲劇は、二度と繰り返してはならない。最近は、企業の不正や無差別殺人などいやなニュースも耳にする。戦争はもちろん、凶悪事件もないまっとうな世の中になってほしい。そして、真の平和がくることを祈る。

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