当時は大浦町の姉の家から三菱電機工場に通い、軍事関係の仕事の手伝いをしていた。毎日のように空襲があり、そのたびに怖い思いをしていた。
あの日、いつものように大波止から飽の浦まで船に乗って工場に向かっていた。すると突然、空襲のサイレンが鳴ったので、船が飽の浦に着くやいなや、急いで工場横にある会社の防空ごうに逃げ込んだ。
かなり時間がたったと思う。警報が解除になり防空ごうから出て仕事を始めた途端、急に「ドーン」という爆音とともに周りが煙に巻かれ、変なにおいがして息苦しくなった。わたしはとっさに机の下にもぐりこんだ。
少しして班長の「早く逃げろ」と言う声が聞こえたが、爆風でわれた窓ガラスが顔や頭、肩などに刺さり動くことができなかった。しばらくたち、周りが明るくなってきたので隣にしゃがんでいた友達に「大丈夫ね。早く逃げないと屋根が壊れてくるよ」と声を掛け、二人でがれきを乗り越えるように防空ごうに向かった。まぶたを切っていたので目が開けられずなかなか歩けなかったが、無我夢中で進んだ。
ようやく防空ごうに着いたときは体中が血だらけでだれとも分からない姿だった。班長もわたしたちの姿が見えず心配していたようで「大丈夫だったか。助かってよかった」と言って治療所に連れていってくれた。まぶたを六針縫ってもらったが、肩に刺さったガラスはそのままだった。
その夜は防空ごうで過ごした。翌日、外に出てみると長崎の町は火の海になっていた。あちこちで起きている火災を避けながら大浦を目指した。あちこちで助けを呼ぶ声や水をくれと叫ぶ声が聞こえたが、わたしたちは水も食料も持たず、どうすることもできなかった。大浦に着いたときはすっかり日が暮れていた。
その後、近くの診療所に行き、肩の中からガラス片を取り除いてもらった。十日ほどたち、千々石町の実家に帰るため長崎駅に向かったが、あちこちで死体をまとめて焼いていた。その光景は今でも目に焼き付いている。長崎駅から列車に乗ることができず、列車が出ている駅までレール沿いに歩いた。列車で諫早まで行き、たまたま知り合った男性に千々石まで車に乗せてもらった。肩が痛むので病院に行き、残っていたガラス片を取り除いたのは約一カ月後だった。(小浜)
<私の願い>
原爆の恐ろしさは実際に遭ったものでないと分からない。わたしが受けた苦しみを味わう人が二度と出ないでほしい。悲惨な戦争が起きないこと、地球上のすべての核兵器がなくなることを願っている。