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私の被爆ノート

親の遺骨背負った男の子

2000年1月21日 掲載
友平 靖子(63) 爆心地から4.5キロの長崎市大浦日ノ出町の自宅で被爆 =佐世保市船越町=

当時は北大浦国民学校(現在の北大浦小)二年。長崎市大浦日ノ出町(現在の東山町と日の出町)の高台にある警察官舎に住んでいた。あの日は朝から自宅で法事を営み、私と母、妹、お坊さんの四人でお経を読んでいた。警察官の父は仕事で留守だった。

お経の前半部が終わり、母が台所でお茶を準備していた時、稲妻のような光が走った。「ドーン」という鈍い音、ガラガラと家のガラスが割れる音が続いた。しばらくその場に伏せていたが、変わった様子もなく、近くの防空ごうに全員で逃げた。

防空ごうでは、集まってくる人が口々に「浦上の方の空が黒かよ」と話していた。近所の農家のおじさんは、長崎工業学校(現在の長崎工業高)に通っていた息子を心配して学校に向かったが、学校までたどり着けず、地下足袋やゲートルに焼け焦げをつくって帰って来た。夕方になると「駅のほうは火の海」「新型爆弾が落ちたようだ」など徐々に情報が入り始めた。

二日後の夕方、おじさんがリヤカーを引いて帰って来た。荷台には毛布が掛けてあり、中は見せてもらえなかった。

十五日、父は「天皇陛下の大切な放送があるから、ラジオをつけておくように」と言って出掛けた。母と一緒に放送を聞いた。雑音がひどく内容も分からなかったが、母から「日本は戦争に負けたとよ」と説明を受けた。

その日の夜、「進駐軍が来るから逃げたほうがいい」ということになり、母と私と妹は佐賀の親類宅に疎開することになった。「家の中の物は進駐軍から全部没収される」といううわさがあり、私が大切にしていたひな人形は屋根裏に父が隠してくれた。

十七日早朝、疎開のため長崎駅へ向かった。県庁舎の鉄筋は折れ曲がり、町にはがれきがあふれていた。列車の中はすし詰め状態。その車中で、被爆して皮膚が焼けただれた人を初めて見た。女学生の母親が、髪の毛が抜け顔も焼けただれたわが子を布で隠していたのが印象に残っている。

列車は諫早駅で停車。私たちは他の乗客とホームで一晩を明かした。私のそばには五歳ぐらいの男の子がリュックサックを背負い、祖父と二人で座っていた。祖父は私の母に「息子が背負うほうが、親もうれしかでしょうから」と話していた。リュックの中には、両親の遺骨が入っているということだった。
<私の願い>
世界中が核兵器を廃絶し、すべての国の子供たちが、決して飢餓や戦争のない幸せな環境で成長してほしい。皆がすべてを分かち合うことができる未来が来るよう、私にできる努力をしていきたい。

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