田島 良一
田島 良一(65)
爆心地から3.6キロの本石灰町の自宅で被爆 =長崎市千歳町=

私の被爆ノート

ものすごい閃光とごう音

2000年1月14日 掲載
田島 良一
田島 良一(65) 爆心地から3.6キロの本石灰町の自宅で被爆 =長崎市千歳町=

私は当時、十歳の小学生。母と弟は仕事のため佐賀県に行っている父のところへ出掛け、私が一人で留守番をしていた。二階で本を読んでいるとき、いきなり「ピカッ」とものすごい閃光(せんこう)が走り、続いてごう音が聞こえたかと思うと、部屋の窓ガラスが全部割れて飛び散った。

伏せるとか何とかできる状態ではなく、全身が硬直したような感じで、全く動けなかった。しばらくして落ち着きを取り戻し、階下に下りたが、外に出るのが怖くて、家の中で母と弟が帰ってくるのを今か今かと待ち続けた。

母が弟を背負って帰宅したのは日が暮れた午後八時ごろだった。喜々津か長与あたりまでしか汽車が動かず、そこから歩いてきたと言い、母の顔はすすけていた。翌日、何があったか見に行くと母に言ったら「見に行くんじゃない」とひどくしかられた。母は一切口にしなかったが、帰宅する道々、犠牲になった人々など悲惨な光景を目にしたのだと思う。だから私はその悲惨さを知らない。

その母は入市被爆の後遺症か、全身に転移したがんのため、五十二歳で死亡した。我慢強い母は痛みもあったと思うが、かかりつけの医師の進言に耳を貸さず、病院に行ったときは既に手遅れだった。

私は二十代まではこれといって身体的な異常はなかったが、三十三、四歳のころ、足がスムーズに動かないようになり、歩行困難になり、大学病院で診察を受け「骨原性肉腫(にくしゅ)」と診断されたが、原因は不明だという。

そのうち下半身がまひし、コバルト照射の治療を受けることになった。瞬時の照射だが、その後はぐったりして疲労感だけが残った。治療の効果はないまま、下半身の感覚が全くなくなった。このため、担当医師が「これ以上、続けると危険」と判断して放射線治療を打ち切り、代わりにリハビリ治療を勧め、島原温泉病院を紹介してくれた。

約一年間入院したが、車いすの利用法などを徹底して鍛えられた。入院中、島原市内の本屋に出掛けた際、道路の段差で転倒したが、対処法を身に付けていたため頭を打たずに済んだ。このときは通行中の高校生に介護してもらった。昨年から原爆被爆者特別養護ホーム「かめだけ」(西彼西彼町)に世話になっているが、下半身の感覚が全くないことで、職員の皆に迷惑を掛けている。(西彼中央)
<私の願い>
日本を守ることは大事だが、どんなことがあっても、とにかく戦争だけは絶対反対。二度とあんな目には遭いたくないというのが私の気持ち。それよりも自然を守り、緑を守ることの大切さを忘れてはいけないと思う。

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