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私の被爆ノート

人とも分からぬ死がい

2000年1月6日 掲載
井手 美咲(86) 爆心地から約1.8キロの三菱兵器製作所住吉トンネル工場で被爆 =長崎市家野町=

当時三十二歳だった私は、三菱兵器製作所大橋工場の住吉トンネル工場で魚雷部品の製作に携わっていた。大橋町の大橋工場と行き来することが多く「昼飯を食べてから(工場に)戻りましょう」との同僚の言葉に従いトンネルにいたことで、結果的に命拾いした。

原爆が落ちた瞬間は工場の真ん中辺りにいて、突如、すさまじい爆風が駆け抜けた。停電になり、暗やみの中で身動きがとれなくなった。即席のたいまつで内部を照らし、数人の仲間とじっとしていると「爆弾が落ちたぞ」と叫びながら、外から男性が入ってきた。

衣服が焦げて上半身をやけどしている。手当てをしているうちに負傷者が続々と増えてきた。「爆弾が落ちた」と皆が口をそろえるが、だれもどこに落ちたか知らない。大やけどを負ったけが人で足の踏み場もなく、家野町の家族が心配になり自宅に帰ることにした。

民家が至る所で燃え上がり、畑や田んぼなど道なき道を突き進んだ。自宅にいるはずの身重の妻と三歳の息子の姿がなかった。周囲の人から防空ごうに避難したと聞き、無事な姿を見た時は涙が止まらなかった。

翌日から自宅に戻り、廃材を利用したバラックで生活を始めた。数少ない男手として埋葬作業の手伝いに明け暮れ、行方不明者の遺体探しを手伝って焼け跡を歩いた。穴という穴から体液を吹きウジがわいた馬、眼球が飛び出たまま息絶えた人、黒焦げで男女の区別どころか、人とも物とも分からない死がい。川には水を求めて押し寄せた人々が山のように重なり合っており、地獄のような光景だった。道すがら「助けてくれ」と懇願されても、どうすることもできなかった。

十一日ごろ、親類宅に身を寄せていた母の安否を確かめに向かった。浦上天主堂の近くに住んでいた母は溝の中にうつぶせになって死んでいた。不思議と悲しみはわかず、親類の遺体と共にだびに付した。想像を絶する体験に人間的な感情が欠落してしまっていた。

大橋町の兵器工場の折れ曲がった鉄骨は衝撃のすさまじさを物語り、火葬をする火が毎晩のように上がった。工場で死んだ大勢の仲間と生き延びた私との命運を分けた八月九日は、私の誕生日でもある。今もこの日を迎えると、脳裏に焼きついた五十四年前の出来事がよみがえってくる。
<私の願い>
世界では今でも紛争が絶えず、多くの国民が犠牲者となっている。こうした悲しい出来事が消えない限り、平和とは言えない。西暦二〇〇〇年を迎え、だれもが望んでいる地球上から争いのない本当の平和が訪れるのを期待したい。

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