当時十四歳。あの日は「空襲が激しくなる中、どうせ死ぬなら一緒に」と、母が妹を疎開先から連れ帰った日だった。自宅で母や妹と昼食の支度をしていた。母が久しぶりに帰った妹のため、めったに食べられない白米のおにぎりを用意していたのを覚えている。
三人で食卓を囲み昼食にしようとしたとき、敵機の飛来する音が聞こえた。避難のため私だけ北側に面した部屋に緊急用の荷物を取りに行った。瞬間、ピカッとせん光が走り、直後に爆風が襲ってきた。衝撃を感じて吹き飛ばされ、ほこりが舞い上がって、しばらく何も見えなかった。
ようやく辺りが見え始めると、家は柱と梁(はり)だけになっていて、一面がれきの山だった。私は北からの爆風で家の南端まで飛ばされ、壁を突き破って、屋外の生け垣に引っ掛かったようだった。恐怖のあまり、母や妹のことも忘れ、はだしのまま近くの雑木林まで無我夢中で走って逃げた。
すでに逃げてきた人がいて、近くに腰を下ろした。しばらくすると、私と同じくらいの年齢の男の子が連れてこられ、横に座った。男の子は胸の辺りにひどいけがを負っていて、心臓のようなものが見えていた。ほとんど何もしゃべることができず、最後にただ「お母さん」とつぶやいて事切れた。幼い顔が今でも忘れられない。
そのまま雑木林で一夜を明かした。周囲はたくさんの人で埋まり、横になれるスペースもない状態だった。朝方、私を捜しに来た母の、私を呼ぶ声が聞こえ直後に気を失った。気が付くと避難先の山小屋に寝かされていた。私は一週間ほど眠っていたらしい。母と妹、仕事に出ていた父は幸い無事だった。
米軍が長崎に入ると聞き、八月十九日の夜、両親と妹の四人で諫早まで避難した。市内は火災や死者の火葬で、異様なにおいが漂っていた。大八車に乗せられて郊外まで来たとき、空気が本当においしかった。
私は、露出していた手と足に大やけどを負っていて、意識が戻った直後から、猛烈な痛みに襲われた。傷口からうじがわいていた。医者も見放したが、石灰水に油とメリケン粉を練り、毎日傷口に塗り付けた。三カ月ほどしてようやく、ひどい痛みが治まったが、その後も、体調不良に苦しんだ。
私の子供たちは、被爆二世だとして結婚を断られたりした。命ある限り、核の恐ろしさを訴えなければと考えている。
<私の願い>
人間性を喪失させる戦争は、二度とあってはならない。子孫にまで苦しみを与えた原爆は、心底恐ろしい兵器。核廃絶を一日も早く実現しなければいけないと思う。