=南高有家町下町=
当時十七歳で、長崎駅近くにあった林兼造船鋳造工場に事務員として勤めていた。六人家族で、四人姉妹。学童疎開で、母と三、四女の妹二人は南高有家町の父の実家に。長崎市中町の自宅には父と、長女の私、二女の三人が残っていた。
あの日もいつも通り私は鋳造工場、自営業を営んでいた父は中央橋近くにあった市場に野菜などの仕入れ、二女は三菱長崎兵器製作所茂里町工場にそれぞれ勤めに出た。
午前十時半をまわったころだろうか。私は鳴り響く空襲警報でろくに仕事が手につかず、事務所内をうろうろとしていた。突然、薄暗い室内に「ピカッ」とせん光が走り、グワーっという爆音。ガラス窓は吹き飛び、すさまじい勢いで砂じんが舞った。柱や壁が崩れ、無我夢中で先輩二人と近くの階段下に身を隠した。
どのくらいの時間がたったのか。互いの顔を見合わせたとき、髪は爆風と砂ぼこりで逆立ち、首や手には点々と血が流れていた。先輩らとともに屋外に出た私の視界に飛び込んできたのはがれきだけの廃虚と化した町。道にはちぎれた衣服から血を流し、両手をぶらりと下げ、うめき声を上げながらぼうぜんと歩く人の列。まさに地獄絵だった。
しばらくして、長崎駅前周辺からは火の手が上がり始めた。私は自宅へは帰れないと思い、西小島町の叔母や父の伯父を頼った。人の列に加わり、とにかく歩いた。夕暮れ時、自宅方向を見下ろすと、赤々と燃える炎に包まれていた。
その日の夜は、父や二女の消息が分からないまま不安な一夜を父の伯父の家で過ごした。翌朝、父や二女を捜しに出掛けた。長崎駅周辺は全壊した家々、焼け焦げた人や犬、猫の死がいが散乱していた。
避難所の新興善小、勝山小では焼け焦げ、血にまみれた人たちがうごめき、息絶える人もいた。木を寄せ集め、数えきれないほどの死体を火葬する光景も目に飛び込んできた。
夕方になって叔母の家に立ち寄ると、父と二女が。父は幸い無事だったが、二女は右半身ガラス片が無数に突き刺さり、鼻の先半分がもぎ取られ、右手の甲の皮膚などがえぐれていた。二女の痛ましい姿。それでも「生きてて良かった」と胸をなで下ろした。
約一週間後、三人は父の実家のある有家町に帰った。二女は自分で病院に通うほどで、回復したように思えたが容体が急変し、一カ月後に息を引き取った。怖くて、悲しい「あの日」。夏が来るたび、あの忌まわしい記憶がよみがえる。
<私の願い>
核の抑止力を盾に、世界で核の保有、開発がまかり通っている現実に怒りを覚える。原爆で犠牲になった人たちの霊は浮かばれない。原爆の悲惨さを子々孫々に伝え、二度と悲しい歴史を繰り返さないよう願っている。