当時十八歳。爆心地から約一・五キロ離れた当時の長崎市銭座町に母と二人暮らしだった。西坂小学校に勤めていたが、あの日は夏休みで母と自宅にいた。
朝から新しいもんぺを縫っていると、突然、周り一面がピカッと光り、向かいに住んでいた人の驚いた顔が真っ黄色に見えたことを覚えている。その瞬間、家は全壊。つぶされた家の材木が体にのしかかり、とても息苦しかった。がれきの中から「ハル子、大丈夫。だれか助けてください。助けてください」と叫ぶ母の声が聞こえた。どうやって母のところまで行ったのか覚えていないが、母と手を取り合って無我夢中で外に出た。
はだしのまま一段上の土手にあった防空ごうに避難した。町を眺めると一面火の海で、血だらけになった人が次々と苦しさにあえぎながら上がってきた。「お年寄りが家の下敷きになって助けを求めていたが、自分自身歩くのがやっとでどうすることもできなかった」などと話していた。
翌朝、家は燃え尽きていた。九日から五日間、畑にあった野菜をかじって空腹をいやし、水がしたたる防空ごうの中で過ごした。その後、長与の親類の家に向かった。汽車に乗ろうとしたが、目が飛び出たり、肌が焼けただれた重症の人でいっぱいで、歩くことになった。
多くの遺体からやっとの思いで捜し出した肉親を戸板に乗せて運ぶ人や、死体を並べて次々に焼いている人、傷まみれで顔は変わりほとんど全裸で「苦しい」「痛い」「水をくれ」などとうめき、重なり合って倒れている人。そんな町中の悲惨な光景と、助けを求める人の力になれなかったつらさは今でもはっきり覚えている。
やっとの思いで親類の家にたどり着いた私はなんとか生き残った。しかし、爆心地近くの人は即死、大やけどを負うなどして亡くなった。
友人の妹は生き残ったが、片目がつぶれ、それを苦に自殺した。五島で警察官をしていた知人は、被爆から三十年間、病気一つしなかったが、突然白血病になり、長崎の病院に向かう船の中で亡くなった。
被爆し、四年後に亡くなった私の女学校時代の同級生の手紙が基になった「キミちゃんの手紙」や、山里小学校、山里中学校の卒業生の手記集など原爆の悲惨さを証言している本は今でも手放すことなく読み返している。
<私の願い>
人類が繰り返してきた戦争は、「侵されたから、侵す」「自己を守るために敵を倒す」という身勝手から起きている。この姿勢を反省し、すべての争いをなくす努力が必要と思う。