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私の被爆ノート

外傷ないまま死に

1999年11月26日 掲載
森山シヅ子(79) 爆心地から約4.6キロの出雲1丁目の自宅で被爆 =長崎市出雲2丁目=

当時二十四歳。あの日は朝から、一年八カ月の娘と母と一緒に自宅にいた。留守番していた近所の子供たち数人を家に呼び、遊ばせていた。

敵機の飛来する音が聞こえたので、母が洗濯物を取り込もうと外へ出ていった。私は子供たちを土間へ呼び寄せ、外に出ないよう注意していた。しばらくすると、ピカッとせん光が走った。目の前が真っ白になったと思ったら、爆風が襲ってきた。家の中のたんすや棚の上の置物が吹き飛んだ。

何が起きたのか分からなかった。子供たちは外に飛び出し「今度の爆弾は何か違うよ」と口々に話す。母を案じながら外に出ると、黒い雲が市街地の上空に広がっていた。

近所の人の中には、のどにやけどを負った人もいた。爆弾がさく裂したとき、チカッとのどに痛みを感じたという。幸い家族や子供たちに、けがはなかった。爆心地付近に身内がいなかったので、市街地に足を運ぶことはなかった。

夕方になり、家にいるのも不安だったので、家族三人で近くにある防空ごうに避難した。防空ごうには次から次へと人々が逃げてきた。ほとんどの人が無傷だったが、一週間後には亡くなったと近所の人から聞いた。外傷を負わせず、死に至らしめる恐ろしい爆弾だと分かり、不安をかき立てられた。なぜ、女性や子供たちがこんな目に遭わなければならないのか、という思いが募った。

数日間、防空ごうの中で生活した。昼夜、市街地の方が何日も赤々と燃えていたのが忘れられない。ガソリンでもまいたのではないかと思うほど火は燃え盛り、消えなかった。

母は血便が続いた。その母も放射能の影響か原因は定かではないが、一年後には心臓、肝臓、腎臓(じんぞう)を患い、亡くなった。

数週間たち長崎駅の辺りに出掛ける機会があった。やけどを負い、ぼうっと日なたぼっこをしている人の姿が記憶にしっかり残っている。やけどにはうじ虫がはい、痛ましい光景だった。

原爆が投下されたとき、陸軍の歩兵隊として久留米にいた夫とは、約二カ月後にやっと会うことができた。私たち家族の安否を気遣っていたという。無事を喜んでくれた。

終戦直後の食料難のときは厳しかった。道端に生えている草を食べる度に、もう戦争は嫌だと強く感じた。
<私の願い>
わずか一発の爆弾で罪のない女性や子供たちが巻き添えになることがあってはならない。今後、二度と核兵器を使ってほしくない。

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