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私の被爆ノート

焼け跡に死体あふれ

1999年11月18日 掲載
松友 雅夫(71) 長崎市戸町の三菱兵器製作所戸町トンネル工場内で被爆 =長崎市竹の久保町=

長崎医科大薬学専門部一年、十七歳のときだった。入学して間もなく、三菱兵器製作所戸町トンネル工場で働くことになり、後輩の作業指導に当たった。

九日も城山町の自宅から出掛けようと自転車に乗った。チェーンが外れ、行くのをやめようとしていたら、姉から「今、日本がどういう時と思っているの」と言われ、修理して家を出た。それが姉と交わした最後の言葉だった。

十一時ごろ、トンネル内を大きな爆風が二度吹き抜けた。驚いて外へ出ると、辺りの風景は一変していた。血だるまの人が走り回り、長崎駅方面から火の手が上がっていた。長崎市内は全滅という。信じられず、自転車で自宅を目指した。

県庁坂をかけ下りると、庁舎が大きな音とともに焼け落ち道をふさいだ。長崎駅から被害はさらにひどくなった。電車が二台、黒焦げになり、つり革を握ったまま乗客が死んでいた。竹の久保(茂里町)の電停を過ぎると、がれきの山で自転車では通れなかった。梁川橋のたもとから川に下りた。川の中では七、八人の子供がひとかたまりとなり死んでいた。

自宅近くにたどり着くが、家々は焼け落ち、人がいる気配はない。焼け跡には死体があふれ、防火用水には何人もの人が首を突っ込み、折り重なり死んでいた。地獄の様相だ。自宅があったと思われる所まで来るが、だれもいない。家族は全員死んだと思った。

その日は浦上水源地下の河岸にあった芋畑で夜を過ごした。突然、隣に寝ていた男性から名前を呼ばれた。顔の半分が焼けただれ、だれだか分からなかった。もう片方から見て、いとこの晴夫兄さんと分かった。

翌朝、道の尾駅で汽車が折り返し運転し負傷者を運んでいると聞き、リヤカーにいとこを乗せて運んだ。満員の汽車に、夢中でいとこを窓から押し込んだ。城山町に戻ると死体の片付けが始まっていた。

十一日、自宅近くで両親と再会。仕事に出ていて助かったという。十三日には妹と会った。妹の話では、姉は豆腐の配給に出掛けて被爆。妹は隣の子供を抱いていて軒下で被爆し、家の下敷きとなったが、子供を助けに来た隣の奥さんに助け出されたという。

しかし、妹の容体は十七日になり急変。そのまま帰らぬ人となった。原爆で私は姉と妹を失ったが、二人は今でも私の心の中に生きている。
<私の願い>
原子力発電をはじめ、核の力に依存した現代社会では「核のない世界」の実現は難しいかもしれないが、核保有国のモラル向上で「核を使わない世界」を目指し、実現してほしい。若い世代の人たちは戦争を遠い昔の物語に風化しないでほしい。

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