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私の被爆ノート

血だらけの死傷者 次々

1999年11月11日 掲載
竹下 民輔(63) 爆心地から3.2キロの自宅で被爆 =諫早市馬渡町=

当時九歳、国民学校の四年生だった。あの日は夏休み中で、現在の長崎市諏訪町付近にあった自宅にいた。通りに面した部屋で横になって本を読んでいたところ、突然、ピカッとものすごい光がガラス窓から飛び込んだ。どんな音がしたのかは、はっきりと覚えていない。

家の中は爆風で障子など建具がなぎ倒され、窓ガラスもほとんど割れたようだった。しばらくして家の外に飛び出したら、周りの家の屋根がわらが吹き飛んでいた。近くの小さな防空壕(ごう)に逃れたが、その時、浦上方面から真っ黒な煙が上がり、太陽の光が遮られて薄暗くなったのを覚えている。「バリバリッ」と音がした時、周囲にいた大人たちが「県庁が燃える音だ」と話していた。

その後、当時、自宅の近くにあった日赤病院に行ってみると、目の玉が飛び出たり、片腕が吹き飛んだり、焼けただれた皮膚を引きずったりした負傷者が、戸板に乗せられて次々と運び込まれていた。血だらけの悲惨な様相を目の当たりにして、子ども心にも強烈な恐怖を感じた。

家の前には小学校のグラウンドくらいの空き地があった。しばらくすると、たくさんの死体が大八車でその空き地に運び込まれ、次々に焼かれた。だが灯油がないのでよく燃えず、生焼けにしかならないので周囲には異臭が漂った。

自宅に下宿していた長崎大学の学生が二、三日たっても帰らず、親と一緒に同大学方面に捜しに出かけた。焼け野原に転がったおびただしい死体の顔を確認しながら歩いた。焼け焦げた死体を百体以上見たと思う。たくさんの人が肉親などの捜索で死体の顔を動かしたのだろう。顔の皮膚はズルズルと剥(む)けていた。腹がパンパンに膨れ上がった牛や馬もあちこちに放置されていた。

捜していた学生は、被爆で負傷しながらも同大学近くの山陰の穴に逃れていた。戸板に乗せて自宅に運び込んだ時、意識はあった。だが、口の中は真っ赤にはれ上がり、ボールを含んだような形相になっていた。水や食事がのどを通らないような状態。和歌山県の実家から心配した家族が訪ねてきた後、苦しみながら亡くなった。十八歳くらいだったと思う。

周囲では「髪の毛が抜ける」と言っていた人が、一週間後に亡くなるなど、次々に人が死んでいった。それが当たり前のような感覚になっていた。今、思えば本当に恐ろしいことだ。
<私の願い>
世界で起きている地域紛争や宗教戦争は貧困が大きな原因。その貧困も、一部の権力者の搾取による”つくられた貧しさ”である場合が多い。富を分かち与え仲良くすることが平和への第一歩。事の大小にかかわらず争いごとを避け、真の平和の実現を願う。

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