当時十六歳で、県警察部労政課に勤めていた。
あの日は朝から、ふだん通り電車で出勤した。職場は”疎開”して、旧勝山小学校の二階の教室を使っていた。朝から空襲警報が出ていったん避難したが、解除されたため、いつも通り机に向かい、仕事を再開した。
しばらくしてパアッと光が差し、間もなく爆風で窓ガラスが割れた。窓際の席にいたが、幸いけがはなかった。だれかが「机の下にしゃがめ」と叫んだが、机はひっくり返っていた。この後、避難したが、慌てており、どんな状況だったか詳しく覚えていない。
避難先は県の防空監視隊のある防空ごう。「広島に新型爆弾落ちる」の情報を聞いていたので、それかと思った。数日前、新型爆弾で何万人も死んだと父に話したが、軍隊経験のあった父は「そんな爆弾があるか」と信じなかった。
自宅は竹の久保町。付近は通行できないと聞いた。防空ごうは監視隊があるので、近くに爆弾が落ちるかもしれないと不安になり、同じ課の友人と二人で立山の中腹まで登って、そこで一晩過ごした。友人の自宅は目覚町にあり、二人で「家族は死んでしまったに違いない。これからどこに帰ればいいのか」と泣き明かした。
夜、米軍の偵察機らしい飛行機の音が何回か響いた。そのたびに二人でしがみついた。怖くて心細かった。遠くに懐中電灯か、たいまつの火の行列が見えた。家族を捜す人々だったのでは。あっちからもこっちからも名前を呼ぶ声が聞こえた。あの叫び声は今も忘れられない。
翌朝、防空ごうに戻ると、友人の父親が訪ねてきた。けがした足をひきずり、服はボロボロ。「ほかの家族はどこにいるのか分からない」と話し、二人は抱き合って泣きじゃくっていた。私も一緒になって泣いた。昼前、自分の父も訪れ「防空ごうに避難していたので、家族はみな無事だ」と聞いた。うれしかったが、信じられなかった。
夕方、家族が避難している自宅近くの防空ごうに向かった。途中、あちこちで火がくすぶり、死体がごろごろしていた。無我夢中で走り、家族の元に急いだ。自宅は爆風でぺしゃんこにつぶれ、しばらくは、父が持ち歩いていた鉄かぶとをなべ代わりにする生活が続いた。
被爆の記憶はだんだん薄れている。毎年ではないが、平和祈念式典にはできるだけ出席するようにしている。
<私の願い>
核兵器をすべてなくしてほしい。ナガサキ・ヒロシマの訴えに反して、核実験を実施する国があるのは残念でならない。若い人は、核兵器のない世界を築くよう努めてほしい。