当時二十六歳。東京都内の洋裁学校に通っていたが空襲が激しくなったため、父から被爆の前年に長崎市八幡町の実家に呼び戻されていた。内臓を患っていたため定職に就かず、家事手伝いをしながら父と二人で暮らしていた。
あの日も普段と変わらず、朝から父を勤務先の市役所に送り出した後、掃除や洗濯をしていた。空襲警報が鳴ったので、隣のおばちゃんと一緒に玄関前に掘った自前の防空ごうに入ったが、何事も起こらなかったのですぐに出た。あまりの暑さに厚手の防空ずきんやモンペを脱ぎ捨て、シャツ一枚になった。「さて、昼飯でも作ろうか」とジャガイモ二つを持ったまま玄関の上がり口に座っていると、突然、ものすごい稲光が辺りを包んだ。「あれ、こんな天気のいい日に雷なんて」と思った瞬間、「ドーン」というごう音がした。同時に目の前が真っ暗になった。体が重たいことに気が付くと、土間にうつぶせに倒れたまま、崩れた壁の泥や障子の山にうずもれていた。
何が起こったのか分からず必死でもがきながらはい上がった。無我夢中で防空ごうへ逃げ込み、暗い防空ごうの中にじっとしていた。この時は体の痛みは感じなかった。しばらくして職場から素足のまま駆け付けた父が私の名前を叫びながら、血相を変えて防空ごうの中に飛び込んできた。泣きながら抱き付いて無事を確かめ合ったのを覚えている。
炊き出しの列に並んでいると、皮がただれて、生肉をたたきつけたような無残な体をした人がゆっくり歩いているのを見かけ恐ろしくなった。焼け出された人に水を飲ませようとしたが、やけどがひどく口が開かない。ガスのホースを口に差し込んで何とか飲ませた。私も背中が痛むので病院で診てもらうと、親指大のガラスがめり込んでいた。
家の中は畳がひっくり返ってぐちゃぐちゃになり、足の踏み場もない状態。壁には大きな穴が開き、爆風の恐ろしさをまざまざと感じた。二畳ほどの広さの防空ごう暮らしが約二カ月続いたが、父があらかじめ防空ごうの中に生活雑貨を備えてくれていたので私たちは皆より恵まれていた。用意周到だった父のおかげと感謝している。
あの時の恐ろしい光景は五十年以上たった今でも思い出したくはない。
<私の願い>
あのような恐ろしい事は私たち以外には二度と経験してもらいたくない。戦争さえなければ原爆は落ちなかったはずであり、戦争がなくなるのが一番の願い。私はもう高齢であり、若い人に平和な世界づくりをお願いしたい。