当時満十八歳。両親と麹屋町に住んでいた。私は原爆が落とされた年の四月に造船関係の専門学校に入学したばかりだった。八月九日は学校を休み、家業の船舶用電器販売の荷造りをしていた。
突然、バチバチという大音響とともに辺りが真っ白になり、横揺れがして窓ガラスが割れて飛び散った。ふすまがガラス片から身を守ってくれ、けがはなかった。新聞で読んだ「広島に新型空中爆雷」がとっさに頭に浮かび、「全市壊滅」と書いてあったことを思い出し「大変だ」と慌てた。
長崎駅近くにいた両親も幸い無事で、一緒に興福寺裏の広場に避難した。町内一帯は金比羅山が熱線と強い爆風を遮ってくれて大きな被害を免れたが、大勢の住民が避難していた。翌日、父親と一緒に、山里町の軍事工場に徴用されていたいとこを捜しに行ったが見つからなかった。
十一日の早朝、同級生が訪ねてきて「大波止に集まれ」と言う。行ってみると、市の職員から引き船に乗せられた。少年時代からあこがれの崎陽丸だった。何事かといぶかっていると、船長から「湾内に浮かんでいる遺体を見つけろ」と指示された。
「あれは違いますか」「いや、ごみだ」と船長と言葉を交わしながら捜した。船員はうまい具合に投げ縄を遺体に引っ掛け、何体も何体も引っ張った。湾内を一周したが、二十体はあったと記憶している。
十二日には、死んだものとあきらめていたいとこが大村の病院に収容されていることが分かり、私の父親が諫早の親せきの家に連れて帰った。しかし、二、三日後には息絶えてしまった。
崎陽丸とともに、今も夢に見る体験として遺体の火葬がある。ごみ取り用の大八車で次から次へと運ばれてくる身元不明の腐乱状態の遺体をだびに付した。場所は今の長崎市民会館がある辺りで、強制疎開で壊された家屋の古材をたき物にした。
材木を升状に重ね、五つの焼き場を造り、一つの升で一度に十数体を重ねた。火葬のにおいは腐敗臭に比べれば楽だった。今はむごいと思うが、その時は精神も異常な状態だったのだろう。私は朝八時ごろから二回、作業に当たり、終わったころは夕方だった。
火葬の作業は「自分は生きている。この人たちを成仏させないと」と必死だった。あの体験から、崎陽丸で回収した遺体や火葬した遺体たちが自分を守ってくれている、とずっと信じて生きている。
<私の願い>
東海村での臨界事故は腹立たしい限り。政府も含めて原子力の危険性を認識していない表れ。被爆の教訓もなく、私たちを愚弄(ぐろう)している。願いが届かない無気力さも感じるが、子供らのために体験を伝えていきたい。