増田チエ子
増田チエ子(72)
佐世保市内での看護救援活動で二次被爆 =佐世保市黒髪町=

私の被爆ノート

患者またいで必死に処置

1999年10月1日 掲載
増田チエ子
増田チエ子(72) 佐世保市内での看護救援活動で二次被爆 =佐世保市黒髪町=

当時十八歳。佐世保海軍共済病院(現・佐世保共済病院)の看護婦として同病院の早岐分院に勤め、二年目の出来事だった。

原爆投下から約一週間後、「長崎にとてつもない爆弾が落とされ全市が焼け野原になった」とのうわさが病院に広がり始めた。貨物列車で早岐国民学校(現・早岐小)に負傷した人々が運ばれ、院長から「救護活動に従事せよ」と話があり、十人前後の班をいくつかつくり現場に向かった。

むしろが敷かれた教室には、皮膚の焼けただれた多くの被爆者が転がるように寝かされていた。男女の別がつかず、脈も取れない状況。女性と分かると恥部にそっとガーゼを当てた。口々に「水をくれ」と、叫びともうめきともつかない声が響き、あまりの壮絶さにあぜんとした。

ピンセットなど医療用具が足りず、看護衣のそでをまくり上げ、十八リットル缶の中からやけど用のクリーム状の薬を手ですくいながら被爆者の全身に塗った。「思いやり」などという気持ちより先に、患者をまたぎながら必死に処置に当たった。

運動場には地域の女性で組織された国防婦人会が大きなかまで炊き出しをしていた。被爆者の口の周りについたウジを払いながら、おにぎりを食べさせ、やかんで水を飲ませる作業を繰り返した。

看護の間も消防団員は戸板を担架にして次々と被爆者を運び込み、帰りには息絶えた被爆者を近くの山中に仮設された火葬場まで運んだ。山の方からは毎日煙が上がり、遺骨の行方が気になっていた。働きずくめで病院宿舎に帰っても食事がのどを通らずただ眠るだけだった。

ある妊婦との出会いが忘れられない。全身焼けただれた女性は、両手を合わせるようにして「私が死んだら生まれてくる子供のための費用に使ってほしい」とお金の入った小さな袋を差し出した。母体が亡くなれば胎児も命を絶たれることを知らず、わが子の成育を願う切実な母心を感じた。

おなかに手を当てると胎動がする女性に対し「大丈夫です。心配しなくてもいいですよ」と声を掛けその場をつくろったが、その時のせつなく悲しかったことは五十年以上たった今でも決して忘れることがない。

戦後、養護教諭として佐世保市内の小学校に勤務。原爆資料館がコースに入る四年生の見学旅行には同行し、若いバスガイドさんの説明の後、マイクを引き継ぎ自分の体験を子供たちに聞かせた。これからも命のあるかぎり当時のことを語り継いでいきたい。
<私の願い>
平和への願いは根強く広がっていると思う半面、それ以上に核実験など核の恐怖に脅かされている現実がある。事が起こってからでは遅い。あの惨事を自分の問題として、一日も早い核廃絶、世界平和実現を推し進めてほしい。

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