城崎 尚道
城崎 尚道(71)
爆心地から約1.2キロの茂里町の三菱兵器工場で被爆 =長崎市花園町=

私の被爆ノート

少女の皮膚はがれ風に揺れ

1999年9月24日 掲載
城崎 尚道
城崎 尚道(71) 爆心地から約1.2キロの茂里町の三菱兵器工場で被爆 =長崎市花園町=

当時は十七歳。三菱兵器茂里町工場第三仕上げ工場で、魚雷の組立作業やハンダメッキ、部品工作などの仕事をしていた。工場内には頭上に大きなクレーンがあり、魚雷の完成品を積み出すための線路が浦上駅から引かれていた。

その日は朝から警戒警報が出ていたが、いつも通りに出勤した。やがて空襲警報が鳴り響いたため工場から避難した。

銭座町の聖徳寺のがけ下には多くの防空ごうが掘られており、避難場所になっていた。防空ごうには入らず、同級生四人と一緒にがけの上のクスノキの根元に避難したが、午前十時すぎに警報が解除され工場に戻った。

午前十一時二分、一瞬、青白い光が音もなく差し込んできたかと思うと工場の崩壊が始まり、二階の部分が大きな音とともに落下してきた。工場の中は粉じんで真っ暗になった。

幸いにも天井全体は落下しなかったが、コンクリートの小さな塊が落ちてきて頭部を負傷した。爆風で飛んできた魚雷の部品で背中にも傷を負った。

工場が火に包まれる中、わたしは窓から外へ必死で逃げ出した。正門の前にはたくさんの死体がころがり、けがをした人たちも右往左往していた。死んでいる男性の黒いかばんが開いており、中には十円札の束がぎっしり詰まっていたのが今でも印象に残っている。

正門を抜け、目覚町の方へ向かい走った。松山町の方は見渡すかぎり火の海で、すべての建物が崩壊していた。崩れた家の中から助けを求める声が聞こえてくるがどうすることもできず、ひたすら逃げた。

四歳くらいの女の子の顔の皮膚が半分はがれ落ち、両腕の皮膚もはがれ、風でひらひらと揺れながら泣いている姿は今でも目に焼き付いている。道路や畑の中にはけがをした人たちが座り込み、教会の人が傷の手当てをしていた。

その日は稲佐町の自宅には帰ることができず知人の家にたどり着くのがやっとだった。浦上方面がほとんど焼失してしまったことを聞き、広島に落とされた新型爆弾と同じものではないかと思った。

翌朝、自宅へ帰ろうと稲佐橋付近を歩いた。死体の腐ったにおいがしていたのを覚えている。前方から血まみれになった男性を抱えた二人の男性とすれちがった。血まみれの男性は友人だった。自宅に戻ると家は倒壊していたが、両親は軽傷を負っただけで健在だった。

数日後、工場に洋服などを取りに行ったが、ほとんどのものが焼失していた。工場内を見渡すと建物を支えていた大きな鉄骨が中央あたりでぽっきりと折れ、落ちていた。工員が下敷きになっていた。

現在は健康を保っているが、当時爆心地の近くに立ち寄らなかったのが幸いしたのではないかと思う。
<私の願い>
核兵器の残酷さを知っている日本人が核廃絶の声を世界中に発信していかなければならない。ただ核の傘で守られた日米安保体制の中で叫ぶ核兵器廃絶の声が届くのかは疑問だ。今後は核の傘からの脱却を目指す努力が必要だ。

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