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私の被爆ノート

夫に付ける薬もなく

1999年9月16日 掲載
西川マツヱ(79) 爆心地から約2.2キロの稲佐町の防空ごうで被爆 =西彼野母崎町脇岬=

当時、二十五歳。夫と八カ月になる娘と三人で稲佐地区の借家に住んでいた。夫は茂里町の三菱長崎製鋼所に勤務。

九日の朝は、出勤する夫に弁当を持たせ、いつもと同じように見送った。その日に限って、夫は下ろしたてのゲートルを巻いて出掛けて行った。後になって考えると、虫の知らせだったのだろうか。

午前十時前。空襲警報が鳴り響き、急いで娘を抱えて自宅近くの防空ごうに避難。近所の人たちと肩を寄せ合って警報の解除を待った。防空ごうの中で、泣き叫ぶ娘をあやし続けた。

しばらくすると、近所の人たちは全員、昼食の準備のために家へ帰宅。私は弁当を持っていたので、そのまま残った。娘を防空ごうの入り口に寝かせ、そばで赤ん坊の衣服を縫っていた。

十一時二分、ピカッと光った瞬間、娘の頭に防空ごうの土がぱらぱらと落ちた。とっさに娘をわきに抱え、奥に逃げじっとしていた。

その後、娘と同じ年ぐらいの小さな赤ん坊を抱えた母親が逃げ込んできた。親子は髪を振り乱し、全身血まみれ。縫っていた衣服をその赤ん坊に着せると、防空ごうよりも山手の方に逃げて行った。何が起こったのか分からないまま、ずっと娘と二人で不安な時を過ごした。

夕方ごろ、防空ごうに駆け付けた近所の人から、夫がけがして稲佐警察署にいることを聞いた。急いで警察署に駆け付けると、全身やけどを負い、あちこちが白く化膿(のう)している夫の姿があった。信じられない光景だった。動けず横になっている夫には付ける薬もなく、そばで見守ることしかできなかった。

やがて警察署は次々と運ばれるけが人や遺体で埋め尽くされた。夫を連れて稲佐国民学校に移った。

翌日、実家の父が心配して野母崎町から徒歩で訪ねてきた。夫が父に対して「家に帰りたか」と一言。父は舟を持ってくると言い残して、再び実家に戻った。

十三日の朝、父の迎えを待たずに、夫は静かに息を引き取った。亡きがらを布団の上に寝かせ、だびに付した。隣には四十―五十人ほど積まれた遺体の山。悲しみより、生き残らなければならないという思いでいっぱいだった。

父や親せきが手こぎの舟で到着したのは、その日の夕方。ほっとしたせいか、涙が止まらなかった。
<私の願い>
あの日のことは思い出したくないが、忘れることもできない。二度と原爆が投下され、悲劇が繰り返されることがあってはならない。そんな恐ろしい兵器は、地球上から一日も早くなくなることを強く望んでいる。

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