当時十六歳。県立瓊浦中学在学中に、同級生らとともに三菱兵器製作所大橋工場に学徒動員されていた。
七月上旬の空襲で、母と弟二人、妹の四人は佐賀県の叔父の家に疎開。当時、水の浦の自宅にいたのは、わたしと町工場に勤める父、姉二人の四人だった。
あの日も蒸し暑い日だった。朝七時。いつものように電車で工場に向かい、七時半前には着いた。すぐに、だだっ広い作業場で魚雷機器の製作作業に取り掛かった。
八時すぎに空襲警報が鳴った。一斉に工場から外に飛び出したが、九時前には解除になり工場内に戻った。とにかく暑かったので、顔を洗ったりして一息ついていた。その時、ものすごい衝撃が襲った。無意識に作業机の下に潜り込んだ途端、工場の鉄骨屋根が崩れ落ちてきた。
一瞬、ガスタンクか何かが爆発したのかと思った。工場内には粉じんが立ち込め、ぼうぜんとなった。背中にガラス片が刺さったが、幸いけがは軽かった。がれきと化した工場をはい出ると、一面焼け野原の光景が広がっていて心底驚いた。
倒壊した家を踏み付けながら、近くの防空ごうに向かった。暗い防空ごうの中は、手足の皮膚が垂れ下がった人たちでいっぱいだった。どれぐらいそこにいたのか分からない。ふと家に帰ろうと思い、防空ごうを出た。黒焦げになったり、両目の眼球が飛び出して死んでいる人たちや、水を求める人たちを横目に、線路伝いにひたすら歩いた。
ようやく自宅にたどり着き、近所の防空ごうで家族三人と再会。「いままでどこにいっとった。心配しとったとよ」。二番目の姉は開口一番こう言った。もう夕方六時を回っていた。
その夜、佐賀にいるはずの母が、ひょっこり防空ご うに現れた。原爆の話を聞き付けた母は、心配のあまり長崎に戻ってきたらしかった。丸一日そこで過ごし、十日の夜、家族五人で喜々津の叔父の家まで歩いて向かった。
一週間後、佐賀の疎開先で弟たちと再会し、お互いの無事を喜び合った。しばらくして歯茎から出血し始め、顔に斑点(はんてん)が出てきた。頭髪も少し抜けた。それでも、家族全員無事だった喜びに比べれば、取るに足らないことのように思えた。
<私の願い>
全世界から、あらゆる戦争をなくすことが一番の願い。そのためにも、世界で唯一の被爆国である日本がリーダーシップを取って、平和を追求していかなくてはならない。わたしも被爆者の一人として、戦争体験を次代に継承し、平和の尊さを訴えていきたい。