十七歳だった私は佐賀県鹿島市の実家を離れ、長与村(現西彼長与町)の門司鉄道局長崎管理部に勤務していた。駅の照明など電力系統が担当で「あの日」も朝から勤務していた。
午前十一時ごろ、定刻より約十五分遅れて三一一列車が長与駅に入った。人から頼まれた荷物を車掌から受け取り、ホームに降りようとした瞬間、駅の裏山の向こうで猛烈なせん光と爆発音がした。強烈な爆風に飛ばされそうになったが、何とか持ちこたえた。
客車の窓ガラスは粉々に割れ、乗客らがわれ先にと逃げていた。息を殺すように様子をうかがっていたが、変化がないため事務所に戻った。昼すぎ、長崎の国鉄関係の被害状況を調査するため三一一列車で長崎へ向かった。長崎方面は空が真っ暗で、不気味だった。
市内に近づくと風景が一変してきた。血まみれで泣き叫びながら線路伝いに負傷者が逃げてくる。浦上方面は一面の焦土と化し、三菱兵器製作所大橋工場の鉄骨もあめのように折れ曲がった無残な姿をさらしており、原爆の威力をまざまざと見せつけられた。
線路が無事な所まで進み停車して汽笛を鳴らしたところ、大勢の負傷者が集まってきた。衣服が焼け、血みどろになったその姿は、悲惨という言葉では言い表せない。自力では列車に乗れないため引っ張り上げた。
両手を握ると、やけどした皮膚がベロリとはげ、ずり落ちるため、下から押し上げる作業を繰り返した。作業が一段落したので大橋の鉄橋付近を歩いた。浦上川には、無数の焼けただれた死体が折り重なっており、惨状に息をのんだ。結局、この三一一列車が救援列車第一号となった。
翌日、長崎駅と浦上駅の救助作業のため再び列車で長崎市内へ戻った。線路のまくら木が焼けており、途中から歩いて駅を目指した。焼け野原はほうきで掃いたように何も残っておらず、男女の区別がつかない黒焦げの死体が散乱していた。
浦上駅の防空ごうには、学徒動員の女学生が避難していた。担架で担いで帰ったが、異臭が漂う焼け跡を歩いていかねばならなかった。時間が長く感じられ、まるで地獄を歩いている気がした。列車にたどり着いた時は”死の街”から抜け出した解放感に浸ったが、あのときの経験は絶対忘れられないだろう。
<私の願い>
「原爆が落ちて長崎には草木も生えない」とのうわさが広まった。あの惨状を目の当たりにした人々が、このうわさを信じたのも分かる気がする。今後、核兵器の使用や核実験などが永久に廃止され、長崎・広島の悲劇が二度と繰り返されないことを願っている。