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私の被爆ノート

悲しかった死体運び

1999年8月28日 掲載
阿比留薫實(73) 爆心地から約2.1キロの八千代町で被爆 =対馬豊玉町唐洲=

対馬豊玉町の尋常高等小学校を卒業した私は徴用を受け、十六歳のときから、西彼香焼町の川南造船所で整備工として働いていた。あの日は、早朝から三菱長崎兵器製作所茂里町工場を見学するため、たまたま長崎に来ていた。当時二十歳だった。

見学を終え、香焼島に帰るため、仲間五、六人と徒歩で大波止へ向かっていた。八千代町に入ったときだった。突然、目の前に青白いせん光が広がった。それから、しばらく意識を失った。

どれくらい時間が経過したかは覚えていない。意識が戻ったときは、うつぶせになっていた。口からは出血。前歯が三、四本折れていた。首から背にかけて激痛も走った。白い長そでのシャツを着ていたためか、幸い、やけどは負わなかった。

周りの建物は、見る見るうちに火が回った。がれきの下からは黒焦げになった人の手や足などの一部がのぞき、「うー、うー」といううめき声も聞こえた。街の人たちは混乱し、一緒に歩いていたはずの仲間ともはぐれてしまった。土地勘のない私は、しばらくさまよい、何とか香焼島へ向かう船に飛び乗った。

香焼島の避難所には数日の間に、大勢の負傷者が運ばれてきた。わたしも担架を持って、大やけどを負った人たちを港から避難所まで運ぶのを手伝った。避難所で亡くなった人も多く、死体を運ぶ作業は、とてもつらかった。積まれた死体はウジがわき、異臭が鼻を突いた。この世のものとは思えなかった。

終戦は造船所で迎えた。悲しくはなかった。正直、ほっとした。しばらくは造船所で片付けなどの作業に当たった。対馬に帰ってきたときは、終戦から約一力月が過ぎていた。

被爆後も、首から背中にかけ、耐えられない痛みに時々襲われ、入退院を繰り返した。入院のたびに「なぜ、私がこんなつらい思いをしなければならないのか」とベッドで悲しんだ。原爆の青白いせん光を見てから、光には過敏になった。夜は明かりを完全に消さないと、眠れない。

先月二十三日、自宅で急に呼吸困難になり、対馬いづはら病院に運ばれた。救急車の中で「もう、駄目なのか」と死を覚悟した。被爆と病気の因果関係は分からない。現在、病状は落ち着いているが、これからどうなるのか。恐怖を抱きながら、病床で過ごしている。
<私の願い>
世界のどこかで、今も絶えない核開発。どこかの国が核実験をするたびに胸が痛む。核の犠牲になるのは、わたしたちだけでたくさん。子孫には絶対に体験させたくないと心から願っている。

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