福江市で育った私は、尋常高等小学校を卒業後、養成工員として長崎市の三菱長崎兵器製作所茂里町工場で働いていた。当時十四歳。あの日も、うだるような暑さの中、シャツ一枚で業務に精を出していた。
午前十一時前、空襲警報。解除とともに工場に戻り、魚雷部品にやすりをかけていたとき、目の前にピカッとせん光が走った。電気系統のショートかと思い、配電盤を振り向いた瞬間、爆風で体が浮いた。
しばらく意識を失っていたようだ。呼吸が苦しくて「ああー」と息を吸い込む自分の大声でハッとわれに返った。十数メートル吹き飛ばされたかもしれない。工場は薄暗く、曲がった鉄骨とがれきの山に一変。私は旋盤の固定台の下に吹き飛ばされたため、がれきの下敷きにならずに済んだようだ。「助けて、助けて」と挺身(ていしん)隊の女学生の叫び声が聞こえる。がれきからはい出す間に、何度も下敷きになった人の手が伸び、つかまれそうになった。助ける余裕はない。ただただ恐ろしかった。
人の流れに任せて山手へ上ると、逃げ延びた人たちが斜面に腰を下ろし、町の火の手をぼう然と見下ろしていた。突然、浦上のガスタンクが爆発。「日本は滅亡する」。そう思うと、怖くてたまらなかった。
夜、工場に戻ると同郷の友人がいて、二人で道の尾駅に向かった。駅には負傷者がいっぱいで、午後九時発の汽車に何とか乗り込めた。汽車から、ホタルの舞う光が遠くに見えた。昼間のすさまじい光景を忘れ、しばらく見とれていた。
けがが軽い私たちは、大村駅での降車を許されず、川棚駅で降りた。近くの寺で五日間、約五十人が雑魚寝をし、地元の人ににぎり飯を食べさせてもらった。その間にも泊まっていた四―五人が亡くなった。
ようやく元気を取り戻し、十四日に長崎市へ。あちこちで死体を積み重ねて焼いていた。異臭が鼻を突き、たまらなかった。翌十五日は市内を歩き回り、諏訪神社前でラジオの玉音放送を聞いた。日本の敗戦を知ったが、悲しい気持ちはわいてこなかった。それより福江のわが家に帰りたい気持ちでいっぱいだった。
五島行きの船を見つけようと大波止に行くと、長い行列が続いていた。負傷者優先なので、私と友達はずっと待ち続け、十七日の夜、やっと出港。福江にたどり着くと、母が「よく帰った。(同じく長崎にいた)兄は先に戻ったが、お前は死んだとあきらめていた」と喜び、泣いた。父は何も言わなかったが、涙ぐんでいたのだろう。「あの日」から既に八日がたっていた。
<私の願い>
夏休みに福江に来る孫たちは、私の被爆体験によく耳を傾けてくれる。あんな恐ろしい目に遭うのは、われらだけでたくさん。子孫には体験させたくないと心から願っている。