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私の被爆ノート

話し声もなく異様な光景

1999年8月12日 掲載
今村 博信(72) 8月10日、長崎市尾上町の国鉄長崎機関区に応援のため入市被爆 =佐世保市三川内町=

当時十八歳で、国鉄早岐機関区の機関士見習をしていた。九日は午後からの勤務だった。自宅を出て、列車で早岐駅に着くと、四番ホームに長崎から到着していた客車の窓がよろい戸を下ろしていた。「何だろう」とのぞくと負傷した人たちでいっぱいだった。

「何か変だなあ」と思いながら機関区に出勤すると、指導助役から「長崎が全滅したので、明日から長崎出張」と業務命令を受けた。機関士指導をキャップに機関士見習や機関助手見習など二十五人ほどで長崎へ向かうことになった。翌十日午前五時ごろ、早岐駅発下り列車に全員で乗り込んだ。

列車には長崎の親類の安否を気遣って向かうのか、一般乗客も大勢乗っていた。道ノ尾駅から先が不通になっており、同駅で降りるとホームや駅舎、駅前広場にはやけどを負った人や赤ちゃんを抱いたお母さん、担架で運ばれた人などであふれていた。「静かで話し声もなく異様だった」。さらに長崎方面から歩いて避難してくる人たちがいた。

原子爆弾が投下されたなど知らされていなかった。「たいしたことはないだろう」と思い、線路の犬走りを歩いて長崎機関区へ向かった。峠を越え、切り通しを下ったところで長崎市内を一望、一面の焼け野原にびっくりした。まくら木がくすぶって燃えていたが、レールだけ真っすぐだったのを異常に思った。何とも言えないにおいに鼻と口をタオルで押さえて歩いた。周囲を見渡す気持ちになれず、足早に歩いた。

浦上駅は全壊。二番線に下り貨物列車が止まったままで、蒸気機関車の窯の火が消えていた。同貨物列車を運転していた機関士は門鉄教習所の同期生のN君だった。亡くなったと後で聞き、涙を流した。

長崎機関区では助役と交番機関士の出迎えを受け、にぎり飯をもらって食べた。夜は機関区の防空ごうで休んだ。時折、米軍機が低空で飛来し、その都度、避難したが、偵察なのか攻撃されることはなかった。ビラをまいたときもあり、馬に乗った憲兵が回収にきた。

長崎―道ノ尾間が開通すると、救援列車の機関車が次々と入線した。貨車から石炭を炭台に降ろしたり、機関車への石炭の積み込みや水の補給などの作業が忙しく市内の様子など分からなかった。開通してからは長与駅で寝泊まりした。

自宅に帰ったのは終戦の翌日だったと思う。一緒に行ったT君が三年目に亡くなった。「かわいそうで悲しかった」。その後、機関士になり、佐賀県の伊万里機関区に転勤した時に被爆者健康手帳を受けた。一時、体毛が抜けた時には「もう駄目か」と思ったこともある。あの日以来、腰痛に苦しんでいる。
<私の願い>
門鉄教習所の同期生の友人らを亡くした。今でも多くの人々が苦しんでおり、このようなことは二度とあってはならない。人を殺す核兵器の廃絶を願い、戦争のない平和で幸せな世界を望んでいる。

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