今村 ヒサ
今村 ヒサ(77)
爆心地から約3キロの現・長崎市三川町で被爆 =長崎市油木町=

私の被爆ノート

梅干しと井戸水で命つなぐ

1999年8月5日 掲載
今村 ヒサ
今村 ヒサ(77) 爆心地から約3キロの現・長崎市三川町で被爆 =長崎市油木町=

当時二十三歳の私は、母が住み込みで賄い人をしていた長崎市大橋町の長崎電気軌道大橋寮に、妹と二歳になる長女美佐子の四人で暮らしていた。夫豊治はビルマ(現ミャンマー)の戦地に赴いていた。

一九四五年八月七日、空襲は日ごとに激しさを増していた。私は母の指示で、妹と長女を連れて現在の同市三川町の山中にあった寺に避難した。八日深夜には、母も同じ寺に逃げてきた。九日の早朝、母が大橋町の寮に戻ると言いだした。残してきた百人近い寮生のことがどうしても気になるからとの理由だった。私はその時、なぜか戻る気になれなかった。今思えば虫の知らせだったのだろう。

結局早めに昼食を取り、皆で寮に戻ることになった。寺を出発しようとしていた矢先、目の前を「ビカッ」と強い光が走った。あまりのまぶしさに一瞬何も見えなくなった。とても日差しが強い日だったが、太陽も見えなくなるほど空がみるみるうちに真っ暗になった。空から灯油のような黒いべたべたしたものが降ってきた。

急いで長女と妹の頭に手ぬぐいをかぶせ、母たちと寺のそばの竹やぶに一目散に逃げ込んだ。今まで経験したことのない出来事で、竹やぶが安全かどうかは分からなかったが、とにかく無我夢中で走った。同じように命からがら逃げてきた人々が「町の中は火の海」「家中のガラスが、障子紙のように一瞬にして吹き飛んだ」と興奮気味に話していた。

大橋町の方に降りていくと、木造だった寮は跡形もなくなっていた。あちこちに寮生か賄い人か区別もつかないほど焦げた屍(しかばね)があった。水を飲もうとしたのか、川に首を突っ込んだ死体や、馬などの死がいが無数に転がっていた。地獄のような光景。腐った死体の何とも言い難いにおいが強烈だったことを覚えている。

もう何も残っていないのでは、と思いながら寮の近くの防空壕(ごう)を確かめると、いつか埋めておいた梅干しのつぼが、きれいに残っていた。しばらくは梅干しと井戸水で命をつないだ。落ちた爆弾が原爆だと知ったのは、終戦を迎えてからだった。原爆に遭って一カ月たったころ、吐き気や頭痛がして座っておれない状態が続いた。

町中が壊滅状態だったにもかかわらず、家族全員が生き残ったのは幸いだった。四六年六月には、生存を半ばあきらめていた夫がビルマから無事帰国。神様に感謝せずにはいられなかった。
<私の願い>
原爆の悲劇は、二度と繰り返してはならない。原爆はもちろん、家族や恋人などすべてを引き裂く戦争そのものが、地球上からなくなることを心から望む。

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