当時私は十五歳。学徒動員され大橋町の三菱兵器大橋工場で働いていた。空襲警報が鳴り避難した先で、引率の教師が「三日前に広島に投下された新型爆弾は原子爆弾だろう」と話していたのが印象深い。
警報が解除され、職場に戻った。親しい仲間たちと早めに昼食にありつく楽しみがあり、A君と約束していた。A君が近づいてきているのが見えたが、監督官の目が気になり、「今はだめだ」と合図を送っていたら「ピカッ」とせん光がした。
目と耳をふさぎ、伏せた。天井からガラスの破片が無数に降り注ぎ、体中に突き刺さった。折れた鉄骨が後頭部に当たり出血が止まらない。日の丸の鉢巻きをあてがったが、血まみれになる布を何度か絞るころ、意識が遠のいた。
救援隊に助け起こされ、辺りを見回すと、うつぶせのまま内臓が飛び出た人、首がちぎれた死体など、すさまじい状況。外に運び出される時、工場の鉄骨があめのようにねじ曲がっているのを見て本当に驚いた。
避難先はけが人であふれ、近くの小高い丘に登った。町並みは一変し、まるでローラーでつぶされたようにペシャンコだった。
松山町の自宅には、遠方に食料調達に行った母を除き、病気療養中の父と三つ違いの弟、それに幼い弟と妹が残っていた。心配になり家路を急ぐ途中、大橋の路面電車の終点に電車が止まっていた。
車掌らしき男性は黒焦げとなり空を見上げていた。乗客たちも焼け死んでいた。焼けた地面を避けて線路沿いに歩き、自宅の辺りを眺めたが灰しか見えない。「救援列車が来る」という声を聞き、乗り込むことにした。列車の中で「内田ではないか」と呼ぶ声がする。振り向くと、体中黒焦げになったA君がいた。
顔は崩れて見分けがつかない。私のけがを心配しながら「おれの傷は軽いか」と聞いてきた。私は本当のことを言えず「大丈夫。頑張れ」と励ましたが、結局、息を引き取った。
五日後、長崎に戻った。母は無事だった。無駄とは知りながら自宅へ向かった。爆心地近くの惨状は筆舌に尽くしがたい。原爆の爆発のショックでおなかから飛び出した胎児もろとも焼け死んだ女性。食卓を囲むように輪になって連なる頭がい骨。超高熱のるつぼに町全体がほうり込まれたのだ。当時自宅にいた家族のうち、父の遺体の一部を除き、他の遺体は今も見つかっていない。
<私の願い>
「疎開したい」と口にした弟を父親が「非国民」としかり飛ばしたが、日本の勝利を信じた父も含めてみんな死んでしまった。大勢の方が亡くなった三菱兵器大橋工場で私が生き残ったのは奇跡に近い。戦争や原爆の悲惨さを伝えていくのが、課せられた使命だと思っている。