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私の被爆ノート

至る所に焼け焦げた死体

1999年7月22日 掲載
中島 浜次(68) 爆心地から1.1キロの長崎市大橋町の三菱兵器大橋工場で被爆 =五島若松町荒川郷=

あの年は四月に長崎市大橋町の三菱青年工業学校に入り、三菱兵器大橋工場で部品の鋳型造りなどの傍ら、勉強をする十四歳の少年だった。

同市坂本町の寮で暮らした後、中小島町の姉宅に引っ越して半月ほどたった日だった。午前七時ごろ出勤。昼食を待ち焦がれながら仕事をしているとき、突然、何かに突き飛ばされたようになった。何が起きたのか全然覚えていない。後で考えれば、逃げようとしたようだが、気を失った。人事不省だったため、死体の山の上に積まれていた。

三日後、死体の山の上でうめいていたところを、偶然通り掛かった海軍の兵隊に助けてもらった。幸い、物陰で原爆の閃光(せんこう)や爆風を避けたらしく、やけどはなかった。ガラス片の刺さった傷が手足や腹にあるくらいで、肩を借りれば歩けた。のどがからからで、兵隊に何度も「水をくれ」と言ったが、決して飲ませてくれなかった。諫早市内の病院へ向かうため、道ノ尾駅まで歩く道中には、至る所に焼け焦げた死体があった。

比較的元気だったため、駅には向かわず、兵器工場跡に臨時に設けられた病院にかつぎ込まれた。兵士たちが「元気そうだな」などと代わる代わる声を掛けてくれたが、病院内には被爆のショックで発狂した女性の声が響くこともあった。そんな中、女子挺身(ていしん)隊員がくれた、おにぎりとナスのみそ漬けは、被爆前には味わえなかったぜいたくな食事で、今でもおいしかったことを鮮明に覚えている。

一週間たっても体調は十分戻らなかったが「とにかく姉の家に帰りたい」と何度も頼み込んで、ようやく帰路についた。五歳年上の兵士が付き添ってくれた。被爆のショックで、道中のことはよく覚えていないが、県庁坂の途中に馬の焼け焦げた死体が転がっていたのが記憶に残っている。

ようやく姉宅へたどり着いた私は、姉に呼び掛けられても返事ができず、五分ほどして緊張の糸が切れたのか、泣きだしてしまった。私が着ていたシャツは、血とほこりのため、体に張り付いて脱げなかった。姉が沸かしてくれた湯につかって、やっとシャツを脱ぐことができた。その夜、五島へ向けて出発したが、「一体何が起こったんだ」と頭の中がずっと混乱していた。
<私の願い>
頭痛などで通院や服薬を続けており、後遺症ではないかと不安になる。私を捜し回った姉は、私以上に悲惨な光景を目の当たりにし、苦い記憶となって残っているようだ。二度と戦争は起きてほしくないし、核兵器が使われない世界が来ることを願ってやまない。

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