山下昭一郎
山下昭一郎(72)
爆心地から約2.7キロの五島町の国鉄職員寮で被爆 =松浦市志佐町庄野免=

私の被爆ノート

死体の中から生存者探し

1999年7月15日 掲載
山下昭一郎
山下昭一郎(72) 爆心地から約2.7キロの五島町の国鉄職員寮で被爆 =松浦市志佐町庄野免=

当時十八歳、国鉄の乗務員だった。昼すぎに長崎駅を発車する門司港行きの旅客列車に乗務するため、寮で制服にアイロンをかけている時だった。突然「ボトッ」という音がして、電気がショートしたように明るくなった。

「爆弾が落ちた」。三階の自分の部屋から慌てて飛び出し、階段の途中にある布団部屋に潜り込んだ。どれぐらいたっただろうか。気が付くと崩れた階段の下敷きになっていた。何とかはい出し、制服に着替えて一階へ。とくに大きなけがはなく、「広島に落ちた新型爆弾じゃなかろうか」と騒ぐ同僚たちを横目に、長崎駅に急いだ。

勤務していた車掌区事務所は半壊状態。貴重品を取り出し、近くの神社まで運んで戻ってきたところ、憲兵に「危ないからここにいろ」と呼び止められ、派出所に待機することになった。

全身に大やけどを負い、浦上方面から着のみ着のままで歩いて来る人々。目の前の通りで繰り広げられる恐ろしい光景を、ただぼう然と見ていた。

夜になり駅前の防空ごうで休んでいたが、近くまで火が迫ってきたため、線路を頼りに道の尾駅を目指した。辺りの建物は燃え、真夜中だというのにとても明るかった。

翌朝、負傷者を救出するため道の尾駅から同僚たちと列車に乗り、大橋地区へ。多くの死体の中から生きている人を探し出し、列車に乗せ、諫早や大村の病院に運んだ。「水をくれ」。水や食べ物を与えるそばから、負傷者たちは次々と倒れていく。こうした日々がしばらく続いた。

八カ月後、休暇をもらい実家のある松浦に戻った。だが、下痢や吐き気に襲われ寝たきりの生活に。「原爆病では」との不安がよぎったが、しばらくすると治った。以来、とくに大きな病気もなく元気に生活している。

だが、ごみ焼き場などのにおいをかぐと、今でも大やけどを負った負傷者のことを思い出し、何とも言えない気分になる。
<私の願い>
世界の子どもたちが幸せに生きていけるために、この世から核兵器をなくさなければいけない。そのためには一人ひとりが地道な反核運動を続けていくことが必要。

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