あの日、報国隊員として、いつものように同級生2人と築町の公設市場2階にあった貯金支局に出勤していた。だが、到着した午前9時半ごろ、警戒警報が鳴っていたため、入り口にいた守衛の男性から「(家に)帰りなさい」と促された。
「すぐに警報は解除されるさ」と同級生と話しながら、片淵3丁目の自宅へ歩いた。料亭「富貴楼」の下を通りがかった時、飛行機が3機見え、そのうち1機が急に高度を下げた。とっさに3人とも道路の側溝に身を潜めた。直後にガーンという大きな音が鳴り響いた。
しばらくして、ゆっくり顔を上げると、負傷した人たちが苦しそうに叫んでいる。見たこともないような真っ赤な太陽に、爆弾が落ちてきていると勘違いし、もう一度、側溝の中へ逃げ込んだ。
自宅は屋根がはがれたり、ガラスが割れたりと荒れていたが、母と妹は無事だった。長崎医科大付属病院(現長崎大学病院)で看護婦として勤務していた姉は2日後、母に連れられて帰宅。多数のけがを負っていた。意識もうろうの姉の姿を目にし、玄関先で大泣き。姉の死も覚悟したが、母の懸命な看病の末、何とか持ち直した。
自宅近くの防空壕(ごう)で生活していた8月15日、「水を飲ませて」と防空壕に立ち寄った見知らぬ中年の女性が教えてくれた。「戦争は終わったよ。玉音放送で天皇陛下が言ってたから」
原爆投下から10日ほどたって、再び同級生と貯金支局に出勤。そこで守衛の男性が亡くなったことを知った。「私たちの身代わりになってくれた」。そう感じ、入り口に立って「おじちゃん、ありがとう」と3人で手を合わせた。
公設市場2階の床板の隙間から見えた1階の光景は、今も脳裏に焼きついている。
1階では、やけどを負った馬や牛が殺されていた。何かを察し必死に後ずさりする馬に、悲しそうに鳴く牛。表現できない異臭も漂っていた。はっきりと覚えていないが、解体後に食肉として売り場に並んでいた記憶も残っている。
市場の周辺では至る所に壊れた家屋の材木が組み上げられていた。そこに死体が運ばれ、灯油をかけて、燃やされる。誰のか分からない遺骨を拾いに来る人もいた。そんな光景が、当たり前のように何日も続いた。
<私の願い>
家があり普通の生活ができる、それだけでありがたいこと。家族だんらんの時間が何より大切で、たとえ夫とけんかをしても一緒にいられることが幸せだと感じる。食料がない生活は本当にきつい。戦争だけは絶対にしないでください。