当時私は十八歳。実家の福岡県を離れ、長崎市西泊町の三菱長崎造船所太田尾工場で昼夜を問わず働く日々だった。現場は私と同年代ばかりで、中堅どころは戦地へ赴いていた。戦況悪化のため、特攻隊員が乗る特殊潜航艇を建造していた。
空襲への恐怖はあったが仕事に追われる立場上、作業長や自分は警報が出ても防空ごうに行かず、工場内の物陰でやり過ごした。九日もいつものように朝から働いていると、稲光のような青白い光がさく裂した。
身を伏せた私の上を爆風が吹き抜け、周囲が見えなくなった。この時は「近くに爆弾が落ちた」と思い、命懸けで工場裏手の防空ごうに逃げ込んだ。
中は避難した人でいっぱいで互いに名前を呼び無事を確認した。外に出ると鉄筋の工場はつぶれてめちゃくちゃ。向島の本工場へ被害を報告することになったが、道すがら浦上方面に真っ黒な入道雲が山間から立ち上っているのが見えた。
身寄りがなかった私は本工場で当直として残っていたが、夜になって、三菱長崎兵器製作所大橋工場から死傷者の救援依頼があった。約六百人が集められて、午後十時ごろに出発した。
燃え盛る炎に遮られ、二手に分かれた救援隊も散り散りばらばら。私たちは何とか油木町に到着したが、辺り一面はおき状に。任務を遂行するため火の海を走り抜けたが、途中で黒い塊をけ散らした。走り抜た後に気付いたが、その塊は人間だった。あおむけやうずくまっている姿など、無数の死骸(がい)が一面に広がっていたのだ。
下大橋から浦上川沿いを行くと、暗闇(やみ)の中で次々と足をつかまれた。
生き延びた人が私たちの腰に抱き付くなどして「水、水をくれ」と必死に求める。耐え切れずに、浦上川に水を求めて次々に飛び込む音も聞こえてきた。
午前三時ごろ、やっと工場にたどり着いた時は救援隊も十四、五人に減っていた。作業は夜明けを待つことになり近くの防空ごうで休んだ。足元から泣き声やうめき声などが聞こえ、鬼気迫る気配が漂っていた。
「集合」という号令で目を覚ますと、周囲は死傷者の群れ。「助かる人を優先する」との指令に従い、手分けしてけが人を担架で救援列車まで運ぶ作業を繰り返した。昼ごろになって友人が拾ったビラに「広島、長崎に落としたこの爆弾はB29が二千機に搭載する爆弾を一度に落としただけの威力のある原子爆弾である」とあり、この時、初めて原爆の存在を知った。
焼け野原では死者の火葬作業に追われ、私自身尋常な精神状態ではいられなかった。終戦後、実家に帰ると家族は私が死んだものと思っており、互いに無事を喜び合った。
<私の願い>
核爆弾は地球そのものを破壊する。人が造ったものだから、人の知恵でなくせるはず。民族、宗教の違いを超えて共存できる、戦争のない平和な世界を築きたい。