旧制長崎中学校の三年生、十四歳のときだった。兵器生産のため、工場に動員されていた。飽の浦の三菱重工長崎造船所の作業の一部を校内で行っており、八月一日からは三交代で働いていた。
九日は朝から空襲警報が出たため「学校に行かなくてもいい」と思い、橋口町の自宅にいた。だが、近所の同級生が「今日からは空襲警報があっても学校に出るように連絡があった」と呼びに来たので、急いで支度して家を出た。しばらくして空襲警報は解除され、学校では工場勤務の班の編成があり、私は午前の勤務となったので学校に残った。
作業中、突然ピカッとせん光が走り、続いてザーという騒音に、反射的にその場に目と耳をふさいで伏せた。強い爆風に見舞われた。バリバリ、バシッという音とともに天井の一部が落下し、ガラス窓が飛び散って全身にガラスの粉とほこりをかぶった。何が何だか分からず、夢中で跳び起き、わが身を確かめたが幸いにけがはなかった。あわてて外に出ると夕暮れのようで、空には桃色がかった赤い雲がもくもくとわきかえっている。大変なことになるのではと恐ろしくなった。
空は厚い雲に覆われ、金比羅山のりょう線が真っ赤だった。「浦上がやられた」と直感し、母と弟、妹のことが心配になり、無事を祈った。「帰宅して待機」との指示で自宅に戻ることになった。長崎駅方面は火の勢いがひどく、西山を回って帰った。高部水源地で浦上から歩いて来る人と出会ったが、彼害状況を尋ねると「浦上方面は何も残ってない」との返事。それから多くの人に会ったが、皆全身は黒くすすけ、力なく歩き、言葉はなかった。やっとのことで山里小学校の墓地の丘までたどり着き、そこで一夜を明かした。
十日の朝、わが家にたどり着くと、すべてが燃え尽き、何もかも区別がつかなくなっていた。家から少し離れた所に変わり果てた母の姿を見つけ、あまりのことに涙さえ出ず、ただ手を合わせるだけだった。その日のうちに弟の耕治とは出会うことができたが、弟の暁郎、妹の律子と再会したときには既に変わり果てた姿だった。耕治も十六日に「兄ちゃん死ぬなよ」との言葉を残して亡くなり、叔母の所にいて助かった一番下の弟隆郎(当時三歳)と二人だけになった。私は原爆で家族を四人失ったが、全員の骨を拾うことができたことは不幸中の幸いと言うべきだろうか。
私を呼びに来た同級生は工場勤務の班の編成で午後の勤務となり一度家に帰ってくる」と下校したまま行方不明となった。己の幸運と彼の非運について、考えさせられるとともに、彼のめい福を祈らずにはいられない。
<私の願い>
原爆資料館を訪れる多くの人に「写真は姿だけかもしれないが、これに色、温度、におい、音の四つがあった」ということを伝えたい。再び原爆の悲劇を繰り返さないように。