昭和二十年八月一日、長崎への空襲を両親の疎開先、大村市の萱瀬地区から目撃した。当時十八歳。長崎に戻ると、勤務先の三菱長崎造船所は米軍のB29の爆撃で被災、死亡した同僚もいた。
造船所の復旧に追われた一週間だった。九日も朝から、所属の造機工作部第一鋳造工場で、建屋内にあるクレーンなどの被害状況を調査中だった。突然のせん光。本能的に工場で一番大きな柱の下に突っ伏した。爆音とともに爆風が襲った。気が付くと体は砂まみれ。工場内にあった船のエンジンなどの鋳型に使う砂が爆風で吹き飛び、降り注いだためだった。
学徒動員の東陵中学(現・長崎南山高)生徒十五人ほどに、造船所向かいの防空ごうへ逃げるよう指示した。防空ごうの中には重傷者の姿は見受けられなかった。
昼すぎ、動員の生徒を家に帰すことになった。外に出てみると、長崎港を挟み、県庁が黒々と煙を上げながら燃えているのが見えた。本当に驚いたのは午後二時を過ぎてから。防空ごうの前を、稲佐町方面から三菱病院を目指し、次々にけが人が通りはじめた。被災者同士抱え合ったり、両手を持って体を引きずる形で進んでいた。やがて三菱病院に向かう長い行列ができた。これはただ事ではない。広島に投下された「新型爆弾」の報道が脳裏に浮かんだ。
午後四時ごろだろうか、兄夫婦と住んでいた稲佐町の家が気になり、帰宅することにした。三菱長崎造船所よりも爆心地寄りの三菱電機では、工場の鉄製の壁が、水にぬれて破れた障子のように穴だらけになっていた。
曙町の悟真寺周辺では、行き場をなくし、重度のやけど、けがをした人たちが道に座り込んでいた。「水をください。お金ならいくらでもあげる。どこかへ連れていって」とうめく人たちに、「すまん、すまん」とわび続け家にたどり着いた。
家は外形を残していたが、床板はすべて吹き上がった状態。山肌にぶつかった爆風が、再び家を破壊したかのようだった。兄夫婦は奇跡的に無事で、その晩は近くの防空ごうで一夜を明かした。また攻撃があるのではという恐怖にとりつかれた。
翌日、工場を訪れたが壊滅状態。夜は連日、稲佐の丘の上から各所で遺体を焼く炎が見えた。混乱の中、会社ではなんの手続きもできないまま、両親の待つ大村に帰った。
<私の願い>
人類が人類を滅ぼすため、核兵器を使用したことは二十世紀の特筆事項。知恵ある人は決して核を用いてはならない。次世代に被爆の悲惨な実態を伝え、永久的な核廃絶に取り組むことが、長崎、広島の義務と考える。