一九四五(昭和二十)年八月九日、運命の日。戦後五十四年、薄れゆく記憶の中、忘れようとしても脳裏に残る模様を記してみる。
当時、私は十三歳。女学生報国隊として三菱造船所大橋工場に通っていた。報国隊は、午前と午後の交代制で、正午に整列して入れ替わる。
ちょうど九日から午後の勤務で、三川町の自宅で早めの昼食をとっている時だった。突然の爆音に驚き、表に飛び出した。空を見上げるとものすごいせん光。妹と弟を連れ防空ごうへ。ほんの一瞬の出来事が本当に長く感じた。
「みんな無事か!」と叫ぶ両親の声にほっとして外に出ると、家の中はガラスなどが飛び散り、大変だった。浦上の方がひどくやられている。空の色が見る見るうちに変わり、ビラが落ちてきた。「新型爆弾を投下する。即刻、都市より退避せよ」という内容。三菱兵器製作所に通う兄のことが心配になった。兄は東京の大学に通い、夏休みで帰省中。「遊んでいられない」と働いていた。
兄を捜しに父と二人で昭和町から純心の方向へ出掛けた。途中、ひどいやけどの人、破れた服のまま、はだしで歩いている人。顔は真っ黒。悲惨な光景が続いていた。
三菱兵器も造船所も見渡すかぎり全滅状態。炎に包まれ、空は一面煙の渦。道路には、ひん死の重傷者と無数の屍(しかばね)。「助けてください、水を-」と、うめき声。本当に地獄絵そのもの。岩屋橋近くの川には、馬の死体。大きく膨らんでいる。そばでヒヨコがピヨピヨと鳴いていた。どこをどう歩いたのか、日はどっぷりと暮れていた。長崎大学正門付近で「お母さん!」と叫びながら女の子が泣いていた。「もう帰ろうか」。父の声にうなずき、帰路に。
父は、ずっと兄を捜し続けた。一週間ほどして消息が分かったが、既に亡くなり、埋葬されていた。話では、体操の時間で外にいて、全身やけど。「家の方も大変なようなので、病院に行く」と言い残し、照円寺下から汽車に乗ったという。現在の大村の国立長崎中央病院に収容され八月十一日に亡くなった。二日間、待っていたろうに。会えなかったことが残念。兄も帰省していなかったら―。私も原爆が一日早いか、一時間遅かったらと思うと―。本当に「運命の日」だった。
「原爆の傷跡いえず六十路越え悔いなく生きん残りし生命」 富子
<私の願い>
被爆体験者も高齢化が進む中「二度と許すまじ原爆を」。次のまた次の世代まで、この反対の声を引き継ぎ、世界中が核のない平和な二十一世紀であってほしい、と願っている。