長崎師範学校の本科一年生、十六歳のときだった。連日、三菱兵器大橋工場の鍛造工場で旋盤を回していた。
すきっ腹で、「昼飯はまだかなあ」と時計を見たら十一時だったことを覚えている。工場の大きなガラス窓の外を、突然、真っ青なきれいな光が走った。すぐにただ事ではないと感じ、機械のわきに伏せて耳と目を覆った。
「ゴオゴオ」という音と爆風が来た。どれぐらい伏せていたか分からない。静かになって目を開けると、様子は一変していた。天井近くにあった物が目の前に落ちている。工場は倒壊し、鉄骨がねじ曲がり横たわっていた。私は機械のおかげで倒壊した鉄骨の直撃を免れた。
見ると工場横の炊事場から火が出ている。「機械の油に引火したらここは危ない」。そう考え、腰をやられた女子挺身(ていしん)隊員をおぶって外へ向かった。
徴用工の少年が、機械にもたれたまま、落ちてきた鉄骨に腹を挟まれていた。
「助けてやらなきゃ」と思っても、重なった鉄骨はどうにもならない。「大丈夫か。後で助けに来るから」と言葉を掛けたが、内臓を地面に垂らした少年は弱々しくうなずいただけだった。今でも八月九日が来ると、少年の顔と、どうにもできなかった自分への恨み、申し訳なさが胸によみがえる。
外では建物がすべて壊れていた。挺身隊員を大橋の方へ連れて行って学校へ戻る途中、畑という畑のイモのつるが同じ方向へなびいていたのを見た。山の中の一軒家まで燃え上がっていた。港からの艦砲射撃ではなく、広島に落ちた新型爆弾ではないのかと、その時初めて思った。
浦上川にはたくさんの人が集まってきていた。顔も肌も焼けて、目もふさがるほどはれ上がっている。皮膚がむけて垂れ下がり、脂が滴っている。腕を体に付けると痛いので浮かせている。女性の丸まげは解けて垂れたまま。髪がない人、川に顔を突っ込んだまま動かない人も見た。
地獄絵図だった。焦げるにおいと、何か甘ったるいにおいが入り交じっていた。私はその後しばらく、温かい白米を食べようとすると、米のにおいがその時の異臭に変わって、食べられなかった。
通り掛かった同郷の少年らと、赤迫に近いイモ畑で夜を明かした。わたしは避難途中、キュウリなどを食べた直後から、なぜか吐き気、むかつきがひどく、翌朝まで苦しめられた。
翌日、街頭で生存者の確認をしていた教官に断り、長与駅から列車で帰郷した。親類宅でふろに入って、初めて頭のすごい砂ぼこりに気付いた。実家では脱毛が続いたが、少しずつ、元気を取り戻せた。温かい白米は、十月になるまでどうしても食べることができなかった。(平戸)
<私の願い>
世界にはまだ戦争がある。原爆の悲惨な体験をなぜ教訓にできないのだろう。共存共栄の気持ちを広げるためにも、私たちには体験を語り継がねばならない責任がある。