当時私は十七歳で、長崎工業経営専門学校(現・長大経済学部)の一年生だった。学徒動員で長崎市茂里町の三菱長崎兵器製作所茂里町工場に、同市稲佐町の自宅から通っていた。三人いた妹は島原に疎開し、母と三菱長崎造船所に勤める父と三人暮らしだった。
「あの日」は朝から友人と工場へ向かったが、腹痛のため私だけ途中で自宅に引き返した。母と二人で家にいたら、いつもと雰囲気が違う爆音が聞こえてきた。
「ピカッ」と光ったと思う間もなく周囲が真っ暗闇 (やみ)に。瞬時の出来事に、二人とも床下にある防空ごうに飛び込んだ。どれくらい時間がたったろうか。外に出ると天井が吹き飛んでおり「近くに爆弾が落ちたのだ」と思った。火の手が各地で上がり、私も懸命の消火活動に追われた。
午後になり、けがを負った父が戻ってきたので、火を逃れ家族で稲佐山に登った。山中で一夜を明かしたが眼下の街が炎に包まれて真っ赤で、一睡もできなかったことを覚えている。
翌日、食料を手に入れるため下山した。見慣れた風景は一変し、見渡すかぎりの焼け野原に絶句した。浦上川沿いの稲佐橋近くに、赤れんが造りの日本冷蔵稲佐製氷工場があり、人だかりができていた。
中に軍用の牛肉があるのを知って被災者が押しかけたのだ。軍を恐れてか中に入る者がいなかったため、私が先陣を切り、次々に肉をさばいて分け与えた。普段ならできないことだが、生きるために精いっぱいだった。
十一日になって、浦上に住む親類の安否を確かめに一人で原子野をさまよった。生きている人は街を抜け出した後で、燃え落ちた電車に立ったままの姿で連なる黒焦げ、川の中に折り重なる山など、目に入るのは死体ばかり。次第に感覚がまひし、惨状を見ても何も感じなくなった。
親類は全員死んでいた。私は無傷だったこともあり、稲佐国民学校(現・稲佐小)に開設された救護所で負傷者の手当てを手伝った。その後、家族で島原に疎開し終戦を迎えた。終戦後、すぐ長崎に戻り学校へ行ったが、生き延びた級友らと再会を喜ぶ間もなく、進駐軍に備えて学校にある銃器類を焼却処分するのが最初の仕事となった。
三菱長崎兵器製作所茂里町工場にいた多くの級友が命を落とした。私が助かったのは運が良かったとしか思えない。犠牲者のめい福を祈っている。
<私の願い>
「長崎には草木が生えない」「被爆者は三年で死ぬ」などの憶測が流れ、周囲の偏見を避けるため被爆者であることを隠し続けた。結婚や就職差別を受けた者も多く「あの日」を語れるようになったのは長い時間を経てから。今の若者がこうしたつらい経験をしないよう、戦争を二度と起こしてはならない。