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私の被爆ノート

爆風と粉じん、意識失う

1999年4月21日 掲載
本田アヤノ(69) 爆心地から1.1キロで被爆 =西彼長与町嬉里郷=

私は当時十五歳。瓊浦高等女学校四年生で学徒報国隊の一員として、長崎市大橋町にあった三菱兵器工場の鋳物工場で働いていた。

その日もいつも通り、午前八時ごろ出勤し、鋳型を造っていた。工場内の左側にあった詰め所のところが「ピカッ」と光った瞬間、工場内の粉じんが舞い上がり、真っ暗になり、息もできない状態になったのを覚えているだけで、何がどうなったのかあとは全く分からなかった。

どれくらい時間がたったのか、気が付くとほこりも収まり室内が明るくなり、工場の内外でワイワイ騒ぐ声がしていた。頭や背中に工場のスレートがわらが落ちて、頭から血が流れていたが、うつぶせになっていたのが幸いしたのか、顔や腹などは無事だった。

防空ごうに逃げようと近くにいた下級生と三人で、工場裏門から本原町の方へ行きかかったが、がれきの山で思うように進めないうえ、あちこちで火の手が上がっていたので、防空ごうへ行くのをあきらめ、自宅に帰ることにした。

この防空ごうも空襲警報が出たときの避難用に、私たちが掘ったもので、ごうとは名ばかりの代物。あの時、警報が鳴って避難していたら、私たちは助かっていなかったと思う。

両親が長与から今の浦上水源地沿いの山道を通って、長崎と行き来しているのを知っていたので、三人ともけがをしていたが、お互いに励まし合って長与へ向かった。裏道を通ったため、悲惨な光景は目にしなかったと思う。長与へ入ると、「長崎で何かがあった」ということで、多くの人が出ていて、母も迎えに来ていた。

私の自宅は現在、町の武道館になっている長与小学校の講堂そばにあり、その講堂が救護所になっていた。私もそこで治療を受けたが、手足や背中は大したことはなかったが、頭は数針縫った。私は自宅から、救護所へ次々に運び込まれる負傷者や亡くなった人が裏手の墓地に運ばれるのを見ているだけだった。

兵器工場でも多くの人が犠牲になり、私たちがいた工場でも別の班の組長が天井につるしていた移動式クレーンの下敷きになって亡くなったと聞き、私たちは幸運だった。早く現場を離れたせいか、後遺症もなく元気でいることに感謝している。
<私の願い>
私はこうして元気にしているが、多くの尊い命が失われ、いまだに後遺症で苦しんでいる人もいる。二度とあのような悲惨さを繰り返してほしくないし、平和な地球を後世に残すため、核実験もやめてほしい。

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