山下 慶子
山下 慶子(60)
爆心地から約1.8キロの本原町2丁目(現・石神町)の自宅で被爆 =長崎市石神町=

私の被爆ノート

母は胎児とともに逝く

1999年4月9日 掲載
山下 慶子
山下 慶子(60) 爆心地から約1.8キロの本原町2丁目(現・石神町)の自宅で被爆 =長崎市石神町=

当時、山里国民学校の一年生。父は朝から勤務先だった三菱の兵器工場に、妊娠中の母は隣の親類宅に、三年生の兄は浦上川に泳ぎに出掛けた。自宅には勉強中の姉と私の二人が残っていた。

突然、ものすごい音がした。気が付くと自宅は倒壊し、屋根の下敷きになっている。がれきの下で、姉と安否の声を掛け合いながら外にはい出ると、上空に大きな黒い雲が舞い上がっていた。

何が起きたか分からぬまま、姉に連れられ近くの防空ごうに駆け込んだ。そこには何人かのけが人がいたようだが、よく覚えていない。ただ、片目のない負傷者がいたことだけは今でも目に焼き付いている。

近所で火の手が上がり、間もなく自宅付近は焼け野原になった。母、姉、水泳中に全身に大やけどを負った兄と一緒に裏山に避難した。

「水をくれ、水が欲しい」。やけどで苦しむ兄。何度も水を飲ませたが、一週間後についに息を引き取った。

家を失った私たちは、親類宅を転々とした。その後、自宅跡にがれきを利用して建てた小さな小屋に住むようになった。

母は下痢が続いた。山から取ってきた薬草を煎(せん)じて必死に飲ませていたが、結局、大村海軍病院に入院。十二月、胎内の子供とともに力尽きた。一、二度しか見舞いに行けず、死に目に会えなかったことが、今でも心残りになっている。

元気だった父は二年後に再婚。だが数力月後に白血病でこの世を去った。今考えると、父は残された私と姉の将来を思い、新しい妻を迎え入れたのだろう。

一家の大黒柱を失った義母、そして私たちは、生活保護を受ける貧しい生活を送ることになった。山里中学校を卒業後、市立商業高校の定時制に入学。昼間は学校給食の調理員として市内の小学校で働き、家計を助けた。

一九五六年に結婚。そして出産―。今では五人の息子に恵まれている。先月三十一日、定年退職を迎え、四十五年間の調理員生活がようやく終わった。これまで特に体に異常はなかったが、最近頭痛が絶えない。
<私の願い>
原爆は愛する家族を次々に奪い、後遺症が今でも被爆者を苦しめ続けている。このような悲劇を二度と繰り返してはいけない。世界恒久平和を心の底から願う。

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