「ガガーン、バリバリ」。異常な飛行機の爆音が鳴った瞬間、「ピカッ」と青い光が走り、周囲が真っ暗になった。耳には泥壁がかぶさり、その時から難聴になった。
当時十四歳。県立長崎工業学校の三年生だったが、学徒報国隊として西彼香焼島の川南造船所で勤労奉仕していた。その日はいつものように、朝から同造船所行きの船に乗るため家を出た。だが、警戒警報が鳴ったため、友人二人と自宅に引き返し、腹ばいになって本を読んでいた。その直後の出来事だった。
気が付くと、泥壁は倒れ、かわらは落ち、家は半壊状態。頭からは血が流れていた。祖母、妹、友人は多少のけがはあったが無事。外は黒い煙が上がり、市街地を見下ろす高台の自宅からは景色が消えていた。自宅周辺はがれきの山で、足の踏み場もない。
三十分ぐらいたっただろうか。負傷した大勢の人々が稲佐山の山頂を目指して自宅前の道を登っていく。両手いっぱいに荷物を抱え込み、表情はおびえきっていた。朝から働きに出ていた父のことが心配になり、祖母や妹を防空ごうに避難させると、すぐに大橋方面に向かった。
心細くなり、兵隊と看護婦数人の隊列の後について必死に歩いた。浦上川の川辺にじっと座っている負傷者、水が欲しかったのか小さな防火水槽に頭を入れたまま死んでいる人、とても恐かった。
父が勤務する三菱長崎造船所・盲唖学校工場に、人影はなかった。さらに歩いて浦上天主堂の下を通りかかると、防空ごうに数人の女子工員がいた。そのうちの一人が父の部下だった。
「まだ生きてる。部下を連れて金比羅山に避難した」。この言葉に希望を抱いて、家路を急いだ。
翌日、父が井樋の口の防空ごうに収容されているという情報が入り、行ってみたが、どこにも姿は見当たらない。負傷者がひしめき合い、地獄のような光景があるだけだった。
重傷者が運ばれていた伊良林国民学校に向かったが、ここにも姿はない。机の上にあった死亡者名簿を何気なくめくってみると、父の名前と住所が記帳されていた。校庭では遺体が火葬され、赤い炎が舞い上がっていた。
<私の願い>
白内障や糖尿病で入退院を繰り返した。原爆の後遺症だろう。核兵器の製造、使用、そして戦争を二度と繰り返してはならない。若者たちは自分のことだけを考えるのではなく、国民全体を大事にする気持ちを培ってほしい。