当時、私は十六歳で長崎市駒場町(現松山町)の鋳物工場、今村製作所で働いていた。その日も朝から工場へ行き、作業準備をしていると、社長から三菱長崎造船所幸町工場まで地金を取りに行くよう指示された。
幸町工場へは自転車で向かい午前十時すぎに到着。早速、資材置き場へ行き鉄くずを馬車に積み込む作業に取り掛かった。突然、雷が落ちたような大音響とともに青白いせん光が走った。私はとっさに防空訓練で教わった通り、目と耳を両手で強く押さえ、その場へ伏せた。しばらくすると物音が聞こえなくなったので目を開けてみると、近くには黒焦げになって息絶えた馬と馬車の持ち主が横たわっていた。
私は資材置き場に立て掛けてあった鉄板の陰に伏せていたので助かったのだ。すぐさま近くの防空ごうへ向かったが人であふれていたため、避難できる場所を求めて、銭座町から穴弘法山の方へ向かって歩き始めた。途中で助けを求める声を何回も聞いたが、とにかく逃げることで精いっぱいだった。
穴弘法山の下にある経カ峰墓地までたどり着いたが、そこから見える浦上一帯の景色はまさに地獄絵だった。ほとんどの家は爆風で倒壊しており周辺は焼け野原。黒焦げになり男女の区別がつかない死体が重なっている。生きている人は火を避け、水を求めさまよい続けており、その惨状を見てぼう然とした。
私はさらに歩き続け、なんとか西郷(現・緑が丘町)の自宅へとたどり着くことができた。家族は、父と母は無事だったが、弟は倒壊した家の下敷きになり即死。全身にやけどを負った姉は二日後に死亡。三菱長崎兵器製作所大橋工場にいた妹も、爆風で粉々になったガラスが体中に突き刺さり三年後に亡くなった。
“あの日”の体験は私の心に深く焼きついている。特に、穴弘法山に逃げる途中、倒壊した家の下敷きになり助けを求めていた女性を救えなかったことは、今でも悔やまれてならない。
<私の願い>
世界中のだれもが平和に暮らせることが私の願い。しかし、核保有国は反核運動を続ける私たちの気持ちを踏みにじり、臨界前核実験を行っている。怒りを覚えながらも、核がなくなるまで粘り強く運動を続けようと決意している。