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私の被爆ノート

泥に覆われ身動きできず

1999年3月5日 掲載
中村恵美子(69) 爆心地から1.6キロの御船町の自宅で被爆 =南高北有馬町田平名=

当時、私は十五歳の女学生。学徒動員で午前中は、長崎市浜口町の工場で働いていました。あの日は朝から青空の広がる良い天気。「暑くなるなあ」と思いながら同市御船町の自宅から工場に出掛けました。

午前七時半すぎだったでしょうか。途中、空襲警報が鳴り響き、自宅に引き返しました。三時間ほどで警報も解除され、自宅に残っていた姉と二人で早めの昼食をとっていました。

突然、飛行機の音がして、しばらくすると「ドーン」という爆音。びっくりして窓越しに外を見渡すと黄色の不気味な光が広がっていました。「はっ」として立ち上がろうとしたのは覚えていますが、どのくらいの時間がたったのか。

無事だった姉の声で意識が戻った時には、辺り一面がれきなどで真っ暗。腰や足には柱や泥がおおいかぶさり身動きひとつできません。目の前の防火水槽で茶の間から五、六メートル飛ばされたことに気付きました。姉が、私の声を頼りに必死になって助け出してくれ、防火水槽が支えになったおかげで私も大したけがはありませんでした。

倒壊した自宅からやっとの思いで脱出すると、目に飛び込んできた風景は、見渡す限りがれきの山。姉と二人、ぼう然と立ちすくみました。それから周りの人の指示に従い、近くの山に避難しました。

山の中では、傷を負った人や死んだ人を連れ添った人が。苦もんの声、遺体にすがって泣き叫ぶ声で山全体がうめいているようでした。山から町を見渡すと、電柱が燃えて周囲に広がっていました。

夕方になって山を下り、NHK長崎放送局下の防空ごうに向かいましたが、辺り一面は焼け野原。しばらくすると、浦上方面からたくさんの人が逃れてきました。それはまるで幽霊の行列でした。焼け焦がれ、髪の毛はなく、衣類の下からはただれた皮膚がはがれ、その皮が指の先にぶらさがり、足は丸膨れして一歩進むのに数分かかる無残な光景でした。

夜になると、あちこちで、焼け跡の余じんで火葬が行われました。火は三日三晩燃え続け、夜空は夕日のように赤く染まっていました。自宅を焼失した私と姉は五日間防空ごうで過ごし、母や弟が疎開していた島原に帰りました。せめてもの救いは家族全員が無事だったことです。今も真っ赤な夕日を見るたびにあの日を思い出します。(口加)
<私の願い>
私は被爆当時の夢をよく見る。はっと目覚めて「夢でよかった」と胸をなで下ろす。戦争の悲惨な体験、つらい思いはもうたくさん。世界中の人たちが相手の痛みを知り、思いやりの心を持っていれば、戦争は起こらないと思う。

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