永田三十二
永田三十二(66)
爆心地から約1.2キロの油木町の民家で被爆 =長崎市式見町=

私の被爆ノート

友人と運命の分かれ道

1999年2月25日 掲載
永田三十二
永田三十二(66) 爆心地から約1.2キロの油木町の民家で被爆 =長崎市式見町=

当時十三歳で県立瓊浦中学一年だった。午前十時半すぎ、学期末の試験が終了し、友人三人とともに式見町の実家へと帰ろうと思っていた。友人の一人が掃除当番に当たっていたため、他の友人たちが「待っていよう」と声を掛けてきた。しかし、なぜか無性に早く家に帰りたかったため、一人で家路に就いた。それが運命の分かれ道となった。

昼食を取るため、油木町の知り合い宅に寄ってひと休みした。縁側の植え込み内に座り、ちょうど弁当を広げた瞬間、ピカッと光った。反射的に目と耳を覆って身を伏せた。硫黄色のフラッシュが何十秒も続いたように思えた。

焼い弾が近くで破裂したと思い、植え込みからはい出た。道路に出ると、近隣の民家から次々に火の手が上がり、上空はもやのような煙に包まれていた。十メートル先は煙で見えなかった。しばらくぼう然としていると、煙の向こうから先ほど別れた友人の一人が駆け寄ってきた。

私を追って近くの市立商業学校の正門前にいたらしい。無残にも学帽とベルトの周りを残し、全身の皮が足の裏までめくれて、赤身がむき出しになっていた。友人は「どこもけがなかたい。よかったなー」と言って抱き付いてきた。

煙が晴れてくると、周囲では、背中がただれた農夫や、ほぼ全裸の女学生らが水がめに首を突っ込んで「お母さん」と言って死んでいく姿が見られた。死体があちこちで横たわっていた。体が半焼きになった人々が火の手を避け、夢遊病者のように水を求めていた。まさに生き地獄だった。

「ここでだれとも分からずに死ぬわけにはいかん」。途中でひん死の友人を一人残し、助けを求めて一時間ほど歩いた。そこで自分を捜しに来た兄に助けられ一命を取り留めた。約二週間ほど病床にあった。熱線で焼かれた右ほおと右手にはウジがわき、ケロイドが残った。

ひん死の友人は、警防団に助けられたが、翌朝に仏壇に手を合わせながら息絶えたことや、残る友人二人も原爆投下から一週間以内に亡くなり、校舎は爆風で全壊したことを後日聞かされた。涙が止まらなかったことを覚えている。
<私の願い>
核兵器を削減していくには、長崎が被爆の実相の資料を世界に示し、その恐ろしさを訴えていくかにかかっている。核の脅威を若い人たちにどう伝えていくか悩むところが多い。被爆者から一方的に話を聞くだけでなく、自分たちで学ぼうという姿勢を持ち続けてほしい。

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