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私の被爆ノート

終戦の知らせにうれしさ

1999年2月5日 掲載
藤田 ヤス(84) 爆心地から約3キロの長崎市築町、長崎地方貯金局で被爆 =長崎市三ツ山町、恵の丘長崎原爆ホームに入所=

当時三十歳。前年の五月に結婚したが、夫はすぐに出征。立山町の民家の離れを借りて一人で住み、築町の長崎地方貯金局で事務員をしていた。

職場はコンクリート二階建ての上の階。ギラギラと暑い日で、机の下にバケツを置いて、水で足をチャプチャプ冷やし、もうじきお昼だなあ、などとのんびり考えていた時だった。

黄色い強い光がキラッと見えた気がした途端、四方の土壁が崩れたように揺れて土煙が上がり、机の上の書類がひらひら天井まで舞い上がった。何が起きたか分からないまま階段を駆け下り、家の近所にあった防空ごうを目指して走った。建物が頑丈だったためか、けがはなかった。

空は真っ黒だった。電柱が何本も倒れ、壊れた共同水栓から水が噴き上がっている。防空ずきんをかぶって懸命に走った。諏訪神社の上あたりで、挺身(ていしん)隊の人と擦れ違った。着物のすそを引きずっているように見えたのは、足の皮膚だった。

防空ごうの中は暗く、けが人のうめき声らしいワーンという響きが聞こえた。奥へ進む途中、足元に横になっていたけが人につまずいてしまい、「ギャーッ」と叫び声がした。血のにおいとろうそくの燃えるにおい、消毒液のにおいが混じったひどいにおいがした。

担架が運び込まれるたびに、母親たちが「○○ちゃーん」と離れ離れになった子供の名を叫びながら周りを取り囲んだ。夜になって丘から街を見下ろすと、あちこちで火事が続いていて、火の固まりがゆらゆら揺れていた。ふっと涼しい風が吹いて「ああ、助かったのだ」と思った。

二、三日間、防空ごうの中で過ごし、自宅に戻ると、部屋中に割れたガラスが散乱していた。手を洗おうとしたら、せっけんにもガラスが突き刺さっていて、手のひらがすっと切れた。

職場の貯金局は足の踏み場もなかった。前の広場では食料にするために殺される馬が、横倒しになって足をばたつかせていた。廃材を集めて肉親の亡きがらを焼く人たちもいた。

偶然会った知人は、六歳になる娘を同じようにして荼毘(だび)に付したと言った。「頭はすぐに焼けたが、腸は焼けにくくて、すごいにおいがして」と話すのを聞いて、何の言葉もなく、ただ一緒に泣いた。

何の情報も入らず、町内会長の家を訪ねた。ここでも何も分からなかった。会長さんは「日本が中国をひどい目に遭わせたから、自分たちもひどい目に遭うのだ」と言った。だから新聞でソ連の参戦を知ったときは、何をされるか、と絶望的な気持ちになった。数日後、その家の雑音交じりのラジオで終戦を知った。負けたのにうれしかった。
<私の願い>
インド、パキスタンで国民が核実験の成功を喜んでいるのを見て、世界には何も伝わっていない、と言葉をなくした。核兵器の恐ろしさをもっと知ってほしい。小学校で被爆体験を話すと、皆、熱心に聞いてくれる。その気持ちのままで育ってくれたらと思う。

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