田中 誠
田中 誠(69)
爆心地から1.2キロの三菱兵器製作所茂里町工場で被爆 =大村市池田1丁目=

私の被爆ノート

目に焼き付き離れない惨状

1999年1月28日 掲載
田中 誠
田中 誠(69) 爆心地から1.2キロの三菱兵器製作所茂里町工場で被爆 =大村市池田1丁目=

中学在学時から地元大村市の海軍工廠(しょう)に動員されていた。卒業後は長崎工業経営専門学校(現長崎大学経済学部)への進学が決まっていたが、登校したのは学校説明会と入学式だけ。引き続き工廠で働き続け、八月から三菱兵器製作所茂里町工場に学徒動員された。

長崎市に来て間もない八月九日。浦上川沿いの倉庫から工場まで、資材の運搬作業を続けていた。工場に戻ると、ラジオが「敵機が北上中」と告げていた。

間もなく突然のせん光。反射的に「工場の電気系統のショートか」と思った。次にとてつもない震動。天井から落下物が容赦なく襲った。思えば、傍らにあった送風機の陰に伏せていたから助かった。

気が付くと、白い光に包まれていた周囲は、ばい煙で真っ黒。明るい方を目指し、外へ。多くの人が山手へ急いでいたが、私は近くの防空ごうにすぐさま駆け込んだ。既に大村空襲を体験しており、続けて波状攻撃があるかもしれないと思ったからだ。

防空ごうの中の人々は着物も皮膚もぼろぼろに垂れ下がっている。うめき声と血生臭さが充満し「地獄とはこんなところか」とぼう然とした。防空ごう前の廃材に火がつき、消火活動が数時間続いた。夕方ようやく火が収まり、電車道に沿って岡町の下宿先へと向かった。

電車はぺちゃんこで、中には黒焦げの死体。浦上川沿いにも死体が累々と重なり、火を避け、水を求める人々の群れ。進むほどに惨状が広がり、行く先には火の手。今も目に焼き付いて離れない。思えば爆心地方面へと進んでいたのだ。「爆撃は一度のはず。なぜこんなことに」。新型爆弾の威力とは知る由もない。

深夜、道の尾駅にたどり着き、救援列車に乗り込むことができた。列車の連結器に立ち、車両にしがみついていたが、やがて手足はしびれ、煙にも耐えかねた。途中で降りて親類宅で一泊。疲れきった私は、翌十日は夕方まで目が覚めなかった。夜、やっと大村市の実家へ。心配していた母が「幽霊じゃなかろうね」と思わず漏らしたのが思い出される。
<私の願い>
被爆者手帳を得たのは最近で、平和祈念式典にも昨年初めて出席した。「被害者」として生き、活動するのにためらいがあったからだ。だが、あの惨事を繰り返してはいけないとの思いは募っている。私自身、消極的にならないよう心掛けたい。

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