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私の被爆ノート

あまりの惨状にがく然

1999年1月14日 掲載
中村 栄(75) 原爆投下後10日目ごろ長崎市内に入り被爆 =長崎市小江原町=

長崎に原爆が落とされたことは島根県の航空隊基地で内部情報として聞いていたが、原爆がどんな威力を持つのか想像つかず、被害の程度は分からなかった。戦争が終わり帰郷すると、あまりの惨状に驚いた。

長崎駅まで汽車が行かないので道の尾駅で降り、毛布や衣類など軍隊で使っていた荷物を担いで長崎駅まで歩いた。浦上を通ったが、大橋付近の状況が一番印象に残っている。原爆の熱線で焼かれ、黒く焦げた人が川べりでいっぱい死んでいた。

やはり黒焦げになった馬が、あちこちで腹をパンパンに膨らませた状態で死んでいた。「これじゃ人間はひとたまりもないな」と思ったのを覚えている。

がれきの山と化した街には、何とも言えないにおいが漂っていた。言葉では言い表せないが、今でもそのにおいが記憶に残っている。

ハエが異常に多かった。今の人には想像つかないだろうが、タオルで追い払わないと、たちまち背中いっぱいにハエがとまった。

市中央部の中島川そばで木くずを積んだ上に死体を乗せてだびに付すのを見た。まだあちこちで死体が焼かれていた。死体は、ごみ収集に使う荷車に乗せて集めていた。荷車は車輪が二つで、小回りが利いたからだろう。死体はほとんど男女の見分けがつかなかった。

長崎駅前の西坂町にあった自宅は、原爆で倒壊していた。当時、長崎には両親と、七人の弟妹がいた。母と、弟の一人は、両親の出身地である市西部の手熊に買い出しに行く途中、油木町辺りで原爆に遭遇、全身に大やけどを負った。二人とも苦しみながら一週間の間に相次ぎ息を引き取ったと聞いた。残る六人の妹弟は防空ごうに避難して無事だった。

父は、徴用で働いていた三菱長崎造船所で被爆。「原爆投下で飛来した米軍のB29を見ていたらせん光でのどをやられた」と話していた。大きな外傷はなかったようだ。
<私の願い>
小躍りして核実験の成功を喜んでいたインド、パキスタンの一般国民は原爆がどんな被害をもたらすか知らないのだと思う。戦争になれば被害者しか生まれない。特に報道機関は、広島、長崎の被害の事実を世界に伝えてほしい。

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