当時、長崎市立高等女学校一年生(十三歳)。長崎市稲佐町の自宅から、いつものように船で通学途中、空襲警報が発令されたため、そのままUターンして自宅へ戻ったときだった。
警報が解除され、母が台所で昼食の準備をしていたとき、居間にいた私の耳に飛行機の爆音が聞こえてきた。窓を開けて顔を出した途端に「ピカッ」。辺りが真っ暗になった。慌てて目と耳をふさいで机の下に潜り込んだが、ガラガラと家が崩れた。何が何だか分からないまま、母と一緒に近くの防空ごうへ素足のまま走っていた。
ふと気がつくと、頭や顔が血でぬるぬるしていた。
着ていたワンピースも血みどろだった。母が応急手当てをしてくれたが、防空ごうの中はけが人だらけ。血のにおいが充満していた。
やがて、茂里町の三菱製鋼所に勤務していた父が防空ごうに入ってきた。そのときは親子三人で「良かった。みんな生きてた」と手を取り合って喜んだ。
翌日、自宅に戻ってみると家は跡形もなくなっていた。「古里の多以良(西彼大瀬戸町多以良内郷)へ帰ろう」。親子三人で歩きだしたが、そのときに見た光景は悲惨なものだった。
浦上川には、黒焦げで生きているのか死んでいるのか分からない人たちが重なり合って倒れていた。女子てい身隊の人たちが、けがをした友人をかばいながら「水をください」と叫んでいた。この世の地獄というものがあったら、こんなものだろうかという状況だった。
丸二日かかって多以良に戻り、親類の家に世話になった。外傷がなかった父は、知り合いの子供らを捜すために二度も長崎市と多以良を往復した。それが命取りになってしまった。
被爆から約一カ月後、父は下痢や吐くことを繰り返し、髪は抜け落ち、白血病のような症状で死んでいった。「節子、学校だけは卒業するんだよ」。一人娘の私に託した最後の言葉だった。
しかし、戦争が終わってから、私にとっては生きていくための闘いが始まった。夢と希望にあふれて入学した女学校もあきらめるしかなかった。慣れない畑仕事、かわら工場勤め…。病弱な母を助けて生きていくことで精いっぱいだった。
戦後約五十年。平和が訪れ、今の子供たちは勉強、クラブ活動に励むことができる。二度と私のような不幸な少女を出さないよう、人類が人類を滅ぼす戦争、核実験がないことを願っている。(大瀬戸)
<私の願い>
インド、パキスタンが核実験を強行したとき、長崎市長らがすぐに抗議行動をした。次世代を担う子供たちには、この気持ちを忘れずにいてほしい。私たちが経験した苦しい思いを繰り返させないために、二度と戦争がないことを信じている。