長崎師範学校の本科一年生、十八歳だった。既に授業はなく、赤迫のトンネル内に設けられた三菱兵器工場の分場に動員され、二交代制で働いていた。
「ガオオーン」という大音響とともに、第六トンネル内に爆風がなだれ込んできた。作業中だったわたしは、とっさに油で汚れた地面に伏せ、目と耳をふさいだ。何秒間待ったろうか。
「もっと奥へ行け」と言う係長の声に従い、電灯が消えて真っ暗なトンネル工場を、ランプを手にした女子挺身(ていしん)隊員とそろそろ進んだ。
第四トンネルヘの通路に、同級生を含むみんながいた。空襲時の退避時間は、ゆっくり談笑できる時間でもあった。一種妙な楽しさの入り交じった空気の中で、やがてトンネル裏口の方から何とも知れないざわめきが響いてきた。
懐中電灯を先頭に近づいてきたのは、工場裏手にある寮の女子工員たちの列だった。肩を支えられた人、血のにじんだシーツのようなものを巻き付けた人、痛みにうめく人―みんな、息をのんだ。
「出てもいいぞ」との係長の声に、みんなでトンネルを出ると、太陽の光が妙に弱く、黄土色っぽい低い雲が空を一面覆っていた。遠く広がる市街地の様子が大きく違う。あちらこちらの山に大小の白煙が立ち上っていた。
同級生二人と文教町の寄宿舎の方に向かったが、変わり果てた風景と、市街地方面から来る人たちの惨状に驚き、とても行けないとあきらめた。たどり着いた道の尾駅には、数えきれない負傷者がおり、死体も多かった。異様な形相の人たちの遅い動きは、映画の水中シーンのようだった。
足元から名前を呼ばれたが、倒れている男性は血と汗で汚れ、顔が分からない。名前を聞いて同級生と判明した。「寄宿舎はなんもなか。全滅さ」という口は膨れ上がり、わたしと来た同級生が、芋をかみ砕いて口移しで食べさせてやると、寂しく微笑した。その男性は汽車の中で息を引き取った、と後日聞いた。
救援活動をするうちに、再び学校へ向かおうという話になった。線路沿いに歩くと、右を向いても左を向いても「兵隊さーん、水をください、助けて」と負傷者が泣き叫んでいた。「おれたちはどうにもできないんだよ」と振り切るような気持ちで急いだ。けがもない姿で歩いていることが申し訳なくつらかった。
寄宿舎は黒焦げだったが、顔見知りの先輩や教官がいた。防空壕(ごう)で夜を明かし、翌朝から平戸へ帰るまでの二日間、学校のけが人や死体を戸板で長与などまで搬送する作業に加わった。
日が昇ると、焦土の異様な臭気が漂った。五十数年たった今でも、当時の写真や映画を見ると、あのにおいを生々しく思い出す。(平戸)
<私の願い>
若者の青春に、再びこんな悲惨な出来事があってはならない。被爆者が存命のうちに、子供たちへの被爆体験の継承を、長崎市内ばかりでなく各地で実施すべきだ。