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私の被爆ノート

「炎の壁」と「どす黒い雲」

1998年12月17日 掲載
山口洋一郎(68) 爆心地から3.3キロの長崎市鳴滝1丁目で被爆 =長崎市出雲2丁目=

当時、わたしは十四歳で、鳴滝にある県立長崎中学校の三年生だった。わたしは深堀に住んでおり、毎日、木造船に乗り一時間以上かけて通学していた。

あの日もいつも通り、朝から学校へ行った。目的は勉強でなく、寄宿舎と教室を改造した工場で高速魚雷艇のプロペラシャフトを造るためだった。

午前十時半ごろ、わたしを含む遠距離通学者が教師から集合を命じられ、運動場の片隅に仮設された材木置き場にたむろしていた。ふと急用を思い出し、運動場から校舎へと向かう坂の途中まで来た、そのときだった。

坂の頂上にいた防空監視員が突然、「伏せろ。何か落ちてくるぞ!」と叫んだ。わたしはとっさに、訓練された通り目と耳を両手で強く押さえ、地面に腹ばいになった。その瞬間、厚い鉄板でほおを殴られるような痛みが走り、同時に土手の桜並木が「ゴォー」と異様な音を立てている感じがした。

怖くて五分間ぐらい伏せていると、辺りの音が聞こえなくなった。恐る恐る目を開けてみると、砂ぼこりで周囲が全く見えなくなっていた。あまりの静けさに自分は死んだのではないかと思い、体中をつねったほどだった。

幸いけがもなく、砂ぼこりも静まったので辺りを見回すと、坂道にはわたしと同じ格好で腹ばいになっている生徒や教師が三十人ぐらいいた。全員が無事を確認したが、すぐに西山の金比羅山方向の異様な光景が目に飛び込んできた。後ろには山の高さの五倍ほどある真っ赤な炎の壁ができており、その上の空はどす黒い雲で覆われていた。そのとき、山の向こうの浦上方面が攻撃されたと思いながら、この世が終わるのではないかと震え上がった。

わたしは歩いて二、三分の場所にある防空ごうに逃げ込んだが、その中には頭から血を流している近所の住民もいた。正午近くになり、悲嘆に暮れながら歩いて自宅まで帰ったが、幸い家族は無事だった。

わたしは放射線を浴びたが、今まで後遺症はほとんどなく幸運だったと思っている。しかし、原爆で亡くなった級友や今も苦しみ続ける重度の被爆者のことを思うと胸が痛む。
<私の願い>
核のない世の中にすることが私の願い。世界の核保有国には、核が人類滅亡の引き金になることを気付かせないといけない。核の根絶こそが私やいま生きている人たちに課せられた使命だと思っている。

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