当時二十九歳。長崎市内の幼稚園で保母をしていた。園児たちを早めに帰した後、食料を確保するため、矢の平の畑に一人でのぼった。
遠くから耳慣れたごう音が近づいてきた。B29のそれだということは瞬時に分かった。「おかしい。編隊ではなく一機だけだ」。そう思った瞬間、せん光が走った。木の下に身を隠したのが早いか、熱風が襲った。
「まさか、新型爆弾では」。三日前、広島に新型爆弾が落とされたことをラジオで聞いていた。顔を上げると、はるか上空まできのこ雲が立ち上っていた。両親の顔が脳裏をよぎり、山を駆け下りて、一目散に寺町の実家へ急いだ。体中にやけどを負い、倒れた人の波を縫うように走った。足をつかまれ、よろめきながら「一体何が起こっているのか」と思った。
爆風で屋根がわらが吹き飛ばされ、天井がなくなってしまった実家にたどり着き、がく然とした。室内はガラスの破片や倒れた家具で足の踏み場もなかった。「両親は?」。鼓動が高鳴り、狂いそうになりながら何度も、大声で名前を叫んだ。裏山の防空ごうから母の呼ぶ声が聞こえ、生きていることが分かった。安ど感と恐怖感がまだ相半ばしていたが、腰にけがをした父に寄り添うような母の姿を見て、初めて涙があふれた。
夕刻、防空ごうは負傷した工員らでいっぱいになった。「水をくれ」。差し出された無数の両手は真っ黒に膨れ上がり、震え、水は指の間から滴り落ちた。血のにおいが充満して、吐きそうになった。
深夜、矢の平の山小屋へ避難。頂上から見渡す浦上方面は焼け野原と化し、至る所で火の手が上がっていた。警防団が、山積みにした死体に火をくべていた。鼻を突く死臭。町が火の海に包まれていくのをただぼうぜんと眺めていた。その夜は眠れなかった。何日かこんな夜が続いた。
「夫は大丈夫だろうか」。二カ月後、夫が内地から無事に戻るまで不思議と出てこなかった言葉だった。あすの自分の生死さえ分からない世界で、逃げ惑うのに必死だった。それで精いっぱいだった。
<私の願い>
あの日の風や血のにおい、雰囲気はそこにいた者にしか分からないが、その万分の一でも後世に伝えていくことが犠牲となった被爆者への償いだと思っている。原爆で何の罪もない多くの子供たちが死んだ。今の若い人には命を粗末にしてほしくない。